「父に教わった“我慢”という言葉」ある日系米国人の証言 ─ 強制収容の記憶 あれから82年

偽自衛官まで出没の能登半島地震の被災地。アメリカの被災地では起こりえない理由

能登半島地震の発生から10日以上が経った今、被災地では空き巣などの犯罪や迷惑行為がいくつも報告されている。 迷彩服姿で現地入りし、支援を装って家に不法侵入する「ニセ自衛官」まで出没しているというから驚きだ。 ほかにも、瓦の修理を申し出た業者に依頼したら高額請求されたとか、廃棄するしかない賞味期限切れの飲食物が大量に届けられたなど、耳を疑うような報道も流れてくる。被災地に無関係の国会議員からユーチューバーまでさまざまな人が現地入りする始末。 現時点で200人以上の人々の死亡が確認され、安否不明者も未だ多い。自宅や家族を失った人、地震による後遺症で健康被害を訴える人、寒さで夜も眠れない人もいる。今こそ皆が一丸となって力を合わせ復興へ向け取り組まなければならない時だろうに、被災者の足手纏いになるとは開いた口が塞がらない。支援活動の妨げに繋がるいかなる行動も慎むべきだろう。 しかし「来ないで」と言ったところで、自分の利益や目の前のことしか見えていない一部の人には真意は伝わらないようだ。筆者は複雑な思いを抱えながら、昨年9月に自分の目で見てきたハワイの被災地の状況を思い出した。そして「そもそも、なぜ無関係の部外者がこんなにも多く現地入りできるのだろう?」と不思議に思った。 オーサーコメント もちろんアメリカでも、都市部の大停電後に窃盗犯がやって来たなんていう話はある。一方で、私が見て来た「大規模自然災害の被災地」ではそれが起こらない、起こりづらい仕組み作りがなされていた。 昨年8月8日に発生したハワイ・マウイ島の山火事では、島北西部のラハイナ地区全体が消失し、一帯が焼け野原となった。死者は最終的には100人に上り、アメリカの山火事では過去100年強で最悪の死者数だ。 筆者がこの被災地(厳密にはその手前)を訪れる機会があったのは、山火事の発生から約1ヵ月後のこと。 マウイ島の被災地に到着するや否や、部外者は一切その中に入れないことを知る。 能登半島地震の被災地でさまざまな問題点が指摘されるこのタイミングで、自然災害の多いアメリカから、筆者はマウイ島の被災地での取り組みについて、写真と共に紹介したい。 もちろん、マウイ島の被災地と能登半島の被災地とでは被害の規模も状況も、法的効力もまったく異なるため同じことはできないだろう。それでも今降りかかっている問題を解決するために「できること」はまだあるはず。こんな取り組みも世界にはあるのだな程度に読んでいただければ何よりだ。 ハワイ山火事発生から43日後現地へ 被災地は「完全封鎖」されていた 筆者はハワイ・マウイ島の山火事発生から43日後の9月中ば、被災したラハイナ地区に向かった。しかし被災地に続く道路は、米軍により封鎖されていた。 設けられた検問所(テントがあるところ)の手前には、筆者のほかに現地の取材班の姿も。 テレビ局KGMB(CBS系列)と KHNL(NBC系列)による報道番組「ハワイ・ニュース・ナウ」のレポーターとカメラマン2人は、検問所の手前にカメラを設置し、これからレポートをしようとしているところだった。私が検問所の担当者に話を聞きに行こうと近くを通った際に目が合い、「中には入れないわよ」とやんわりと教えてくれた。2人が言った通り、検問所の米軍担当者も「中に入るには通行許可証が必要」と言った。彼らによると、ここに従来住んでいた居住者でも最近になってやっと中に入ることができるようになったばかりで、無関係の部外者は例え取材班でさえ中に入ることはできないという。 このようにこの被災地では部外者を完全シャットアウトしているため、政治家もユーチューバーも当然いない。もちろん悪質業者や犯罪者も中にはいっさい入ることはできない。 人の往来をシャットアウトしたのは、復興時の混乱を避けるためという理由だけではない。焼け跡の瓦礫から有害物質が出たためだ。だからこそ前述の通り、取材班も住民でさえも中には入れなかった。 山火事から1ヵ月が経ったこの時期はようやく、復興作業員に加え、近隣のホテルで避難生活をしている人のみ焼け跡の敷地内に定期的に戻ることが許可され始めたころだった。避難生活に同伴できないペットに餌を与えるためだ。 封鎖されていたのは道路だけではない。規制線が被災地を囲むようにぐるっと設けられていた。 山火事発生当時に、フォトグラファーが焼け跡で撮影した写真が新聞各紙に掲載されていた。鎮火前で、有害物質が発生している危険地帯にメディアの立ち入りの許可は当然出ないだろうから、おそらく個人の判断で規制線を勝手に越えて中に入って撮影したのだろうと察する。 このようにバリケードを張ったところで、部外者を完璧にシャットアウトできるかと言えばそうではないが(メキシコとの国境を見てもそれはわかる)、少なくともある程度のコントロールや統制はできるだろう。実際に、筆者はこの時、住民以外の部外者をまったく見なかった。 「バリケードの外」にある公園には、食品の缶詰から粉ミルク、生理用品まで生活に必要な無償の支援物資がたくさん置かれていた。それらは設置されたテントの中に整頓され、必要とする人がそこからピックアップする仕組み(手続きは不要)。このような支援物資は、州の担当者とボランティアが管理していた。 以上が、私がマウイの被災地周辺で見たものだ。 被災地に「来ないで」と言葉で自制を求めても来る人が減らずそれにより問題が集積する限り、被災地の自治体のリーダーは問題の発生源を「阻止」するための、言葉だけではない「何らかの具体策」を練ることが求められるだろう。 マウイ火災 関連記事 部外者が敷地内に入れない記事 Text and photos by Kasumi Abe (Yahoo!ニュース エキスパート「ニューヨーク直行便」(c) 安部かすみより一部転載)本記事の無断転載禁止

ハマス襲撃、旧ジャニーズ事務所性加害、BLM… 世界中の「母の気持ち」に思いを馳せる

今月イスラエルで発生した「ハマスによる襲撃、人質誘拐」、そして日本で話題になった「旧ジャニーズ事務所の性加害問題」、さらに20年にアメリカで発生した「BLM(ブラック・ライブズ・マター)」。これら一見接点がない3つの出来事から、「息子を持つ母親の心の痛み」を考えてみました。(Yahoo!ニュース エキスパート 安部かすみ 2023年10月27号より) ハマスに息子を連れ去られた母の悲痛 「あなたは母親ですか?」 この質問に、記者は「いいえ」と答えた。 「そうですか。でもあなたは母親がいますよね。もしあなたに何かが起こったら、母親がどのような気持ちになるのか容易に想像できますね」 この会話は、今月20日付のニューヨークタイムズのポッドキャスト、Hamas Took Her Son(ハマスが私の息子を連れ去った)での冒頭のやりとりである。この回は、イスラム組織ハマスに息子を連れ去られたエルサレム在住のレイチェル・ゴールドバーグさん(53)が、司会進行を務めるサブリナ・タヴァニシ記者に逆質問をするところから始まる。 レイチェルさんの息子、ハーシュ・ゴールドバーグ-ポリンさん(23)は今月7日、イスラエル南部のガザ地区との国境付近で開かれた屋外音楽祭に行ったまま行方不明になっている。 レイチェルさんがハーシュさんと最後に会ったのは音楽祭の前夜のこと。家族や友人とテーブルを囲んで食事し、挨拶のキスをして別れたという。ハマスによる攻撃が起こったのは7日の土曜日、つまりユダヤ教の安息日だ。ユダヤ教徒だとされるレイチェルさんはいつものように携帯電話の電源をオフにしていた。夫がシナゴーグに出かけた後、お茶を飲んでいたら午前8時ごろ警報サイレンが鳴り、娘2人を起こしてシェルターに避難した。ハーシュさんの安否を確認するために携帯の電源を入れると、ハーシュさんから2通のテキストメッセージが8時11分に届いているのが確認できた。最初のメッセージは「愛しています」。二つ目は「ごめんなさい」だった。 早朝に息子からそのようなメッセージが届くのは尋常ではない。ごめんの意味について「子が母に心配をかけ、多大な苦痛を与えることへの謝罪」と汲み取ったレイチェルさんは胸騒ぎがした。ハーシュさんに電話をかけたが、あの日から応答がない。その後、事件の真相が明らかになるにつれて、レイチェルさんは「半狂乱になり、パニックに陥った」。 Photo: ハマスの武装集団によって突然襲撃された屋外音楽祭の現場(事件から5日後の様子)。 その後のレイチェルさんは救済チームを組み、事件を世界中に伝えるなど、息子の救出に繋がる活動をしている。さまざまなルートでたぐり寄せた情報から、ハーシュさんらは事件発生直後にシェルターに避難したようだ。午前8時30分ごろテロリストによって手榴弾のようなものが投げ込まれ、多くの若者が負傷した。ハーシュさんの肘から先も吹き飛ばされたという目撃証言がある。結局ハーシュさんら生存者はテロリストによって人質として連れて行かれたと見られている。 「息子が腕の治療を受けていますように。そして息子がここに戻ってきますように」 「生きて息子に再び会えることを願っています。彼を家に連れて帰りたい」 母として悲痛な思いを静かに訴えたレイチェルさん。インタビューの中で、彼女が息子だけでなく、ガザにいる罪のないパレスチナの民間人が犠牲になっていることにも煩悶する様子が伝わってくる。 タヴァニシ記者がレイチェルさんに「ハマスに何を望んでいるか?何を理解してほしいか?」と質問すると、「理解してもらいたいことは何もない。逆に彼らがどんな人なのか、何を求めているのかを私が理解したい」と答えたのも印象的だった。「単にイスラエルにユダヤ人が住んでほしくないだけなのか? それともユダヤ人自体が生きてほしくないのか?何が彼らの最終ゴールなのか、知りたい」とレイチェルさん。 10月7日以降、ハマスは人質として多くの人を連れ去った。ここに来てアメリカ人親子や79歳、85歳の高齢者など現時点で4名の人質(すべて女性)の解放が伝えられる中、依然200人以上が行方不明になったままだ。その中には生後9ヵ月の乳児も含まれる。 残念ながらハーシュさんをはじめ、男性は一人も解放されていない。そしてハマスは人質に暴力を振るい、攻撃の際に「人間の盾」として利用しようとしている。囚われの身になった人々の安否が心配されており、残りの人々の早期の解放に向けた働きかけが、中東の近隣諸国の協力のもと行われている。 元ジャニーズ事務所の性加害問題 被害者の母の心情は? イスラエルとハマスの衝突が開始し冒頭のポッドキャストが放送された時期、日本ではジャニーズ事務所(現SMILE-UP.)の性加害問題の報道が目白押しだった。メディアやSNSでは連日、被害者の救済と補償などについての議論が活発に行われていた。 私は遠くアメリカから、毎日のようにニュースサイトを賑わせるこのニュースを傍観しながら、いくつか思ったことがあった。その一つは、被害者の母親の存在が葬り去られていることだった。被害に遭った本人以上に、母親とて愛する息子を傷つけられ相当辛い思いをしているだろうに、母としての心的外傷や痛み、心のケアといったものが議論の俎上に載ることもなく完全スルー状態で、補償問題が語られていた。 Photo: 記者会見の様子 「寝室でパンツを脱がされ…」「テレビ局のトイレで…」と、衝撃的な証言が次々に出てくる中、「あぁ、これは母親が聞いたらやるせないだろうな」と筆者は感じた。信用した事務所や大人に大切な子を預け、外泊を許可していた母親(もしくは保護者)は、衝撃的な事実を知り、たまったものじゃないだろう。きっと中には、自責の念を持つ人もいるだろう。そんなことをニュースサイトを開いてはぼんやりと考えていた頃に、冒頭のイスラエルの母の思いが耳に入り、日本とイスラエル、全く別世界の出来事ではあるが、筆者の頭の中で「母と息子」「息子の傷は母の傷」という共通項で繋がったトピックだった。元ジャニーズ事務所から被害者本人への補償は今後進められていくようだが、どうか傷ついたであろう母親や家族のことにも思いを馳せ案じながら、十分な被害者救済や補償、心のケアを進めてほしいと願うばかりである。 息子の痛みは母の痛み。アメリカでも 冒頭のレイチェルさんが記者に投げかけた質問「あなたは母親ですか?」の質問に対して、筆者の答えも「ノー」であるが、なぜ母親でもない私が、そのような母の心情に寄り添う気持ちになったのかについては、これまでアメリカで取材した体験がベースにある。 Photo: BLMイメージ写真 中でも2020年5月にミネソタ州ミネアポリス市で発生した、白人警官による黒人男性ジョージ・フロイドさんの死亡事件の取材が一番思い出される。当時全米では、BLM運動が日に日に拡大し、私はこの時期に多くの黒人男性や黒人ミックスの男性、そして母親にも取材をした。生の声を拾い上げる中で、ある母親の叫びが聞こえてきた。それは息子を殺された、または殺されなくても暴力を振るわれ傷つけられた黒人男性の痛々しい母親の姿だった。 「自分の息子が、ジョージ・フロイドのように殺されたらと考えるとゾッとする、おぞましい」 「将来この子が成長し、警官から暴行を受けるのではないか、いつか被害に遭ってしまうのではないかと、非常に危機感を持っている」 母親がこのように口を揃えて語ったことが忘れられない。この取材を通し、息子とは一心同体の母親の存在を改めて認識した。息子を思う母(親)の気持ち、心の叫び、「息子の心の傷=母親の傷」を強く実感したのである。 Text by Kasumi Abe (Yahoo!ニュース エキスパート「ニューヨーク直行便」(c) 安部かすみより一部転載)本記事の無断転載禁止

マウイ島山火事から2ヵ月。被災地で新たな動きと復興の象徴「ウル」 

ハワイ・マウイ島山火事から2ヵ月 ハワイ州各地で今年8月に発生した山火事から2ヵ月になる。中でもマウイ島北西部の人気観光地ラハイナは、街が全焼するなど特に甚大な被害が及んだ。 ラハイナでは8月8日、火が丘の方から数時間以内に周辺の住宅地や商店街に燃え広がった。火の手が上がったのは2170エーカー(約8.8平方キロメートル)で、少なくとも2200棟(うち86%は住居)の建物が損壊したと報じられている。 死者は最新の情報で、マウイ島だけで少なくとも97人。今も66人が行方不明になったままだ。 ハワイと筆者が住むニューヨークは同じアメリカ合衆国でありながら飛行機で約11時間もかかるほどの距離がある。よってどちらかの地域で災害や事件が起こったとしても、他方の地域ではまるで遠い国の出来事のように感じるのは致し方ない。8月の山火事についてもニューヨークの人々の受け止めは一様にそのような感じだった。 しかし私の心持ちは少し違った。発生した時点で奇しくもハワイ行きが予定に入っていたからだ。まるで爆弾が投下されたように街全体が一面焼け野原になった映像を見て背筋が凍り、気分が滅入る日が続いた。 さらに旅程が近づくにつれ「予定通りに行っても大丈夫なのか?」「果たして島は安全なのか?」と不安が増した。発生から27日目の9月4日にようやく鎮火したとの情報はあるものの、旅行サイトや航空会社からは「Is it okay to visit Maui right now?(マウイ島へ行っても大丈?)」や「Important information about your flight to Maui(マウイ行きのフライトに関する重要な情報)」という知らせが届くようになった。さまざまな情報をかき集め、このような情報に行き着いた。 さらに以下のような情報もあった。 つまり「旅行計画をキャンセルしないで」ということらしい。その一方で、ビーチで楽しそうに泳ぐ観光客の姿を尻目に、島の住民は複雑な心境になっているとも伝えられる。 おそらく観光客は少ないだろうと予想するが、どれもこれも現地に行かないことにはわからない。 アメリカ合衆国ハワイ州の地図 マウイ島(マウイ郡)の拡大地図 9月某日、鎮火後のマウイ島へ 山火事発生から1ヵ月が経った某日。私が予定通り搭乗した飛行機は、あと10分ほどでマウイ島カフルイ空港に到着しようとしていた。 飛行機は着陸態勢に入り高度が一気に落ちる。窓にマウイ島北西部の広大な景色が映った。一帯は山脈とその麓で全体的に黄土色だ。明らかにこの地が乾燥し干ばつ地であることが窺える。 無事、島に降り立つ。気温30度超え。青い空と美しい海、太陽の日差しはじりじりと暑い。人々はせせこましさがなく、大らかでおっとりした印象だ。店の対応も(ニューヨークに比べて)丁寧で良い! 通常運転の街、そして人々の様子を見て、少し前まで抱いていた心配が杞憂だったと感じた。空港、ホテル、観光地、ビーチとどこに行っても観光客で賑わい、報道で見聞きした被災地という印象をまったく受けない。ここはまさに「パラダイス」そのものだった。 陽気からの浮かれ気分は、島上陸後しばらく続いた。 北西部に行くまで・・・。 島北西部、ラハイナはこれまでの明るい光景から一転、同じ島とは思えぬほど世界が違った。 そこにはいまだ、火災の深い傷跡が残されていた。 私は被災地に向かう前、ハワイ在住の日本人コーディネーター、三谷かおりさんに話を聞く機会があった。三谷さんはテレビ取材の同行で複数回被災地入りをしており、ラハイナの最新事情に精通している。 被災前のラハイナについて、三谷さんはこのように教えてくれた。「もとは捕鯨の基地として19世紀前半に栄え、近年はマウイ島きっての観光の街でした。海沿いを走るフロントストリート沿いには店やレストランが並びとても賑やかだったんですよ」。 今は人影さえもない。どの住居も黒く焼け焦げ、屋根がなく、火災の強さを物語っている。かろうじて家具のようなものが残っていたとしてもそれが何だったのか判別がつかない。道路に残されたままの車両も黒焦げだ。 そうこうしていると、私はあるカップルに出会った。焼け跡に入って行く人影を見て住民だろうと多い、出てくる頃合いを見計らって声をかけた。 女性の方は私と目を合わせようとしないが、男性の方は何かを訴えたいような雰囲気で、私が声をかけると快く応じてくれた。 2人はこの地区に住んでいた夫婦で、今回の山火事により自宅を失った。 男性は火が燃え広がった8日について「とにかく朝からすごい強風だった」と振り返った。朝7時ごろから異変を感じとり、山火事の報を受け、正午過ぎには逃避を決めたという。火は一気に街を焼き尽くした。 火が街に燃え広がった原因は究明中とされているが、老朽化した送電線が強風で損傷し出火したとの見方もある。 「火が燃え広がったのはすぐそこからなんだ」。男性は自宅から目と鼻の先、現在進入禁止になっているすぐ近くの通りを指差した。「実は2018年も同じような火災が発生したんだ。そのときは規模が今回より小さかったけど」と言って、今度は逆の山の方を指した。住宅や店が集まっていた街のすぐそばに、このような乾燥した風景が広がっていることに驚く。このような証言からも、ここは火災が発生しやすい土地柄だとわかった。 あの日以来、夫妻は島のホテルで避難生活を送っている。そして男性はホテルから毎日、全焼した家に戻って来ているという。その理由は飼い猫と鶏に餌をあげるためだ。 「避難先のホテルではペットを今までのように飼えないから、毎日様子を見に来ているんだ」。この説明に、野良猫がやたらに多いのが合点した。 話をしていたら、少し離れた場所から疑心暗鬼な表情でこちらの様子を伺っていた女性もやって来た。 政府からの支援は足りているのか。今、何が必要か。私は2人に単刀直入に聞いてみた。 「足りてるいるかって?政府(FEMA、連邦緊急事態管理庁)からの支援金700ドルじゃ到底足りないわよね」。愚問だったからか、女性は浮かぬ顔で不満を漏らした。「ただし救いは赤十字。彼らの支援があるからこそ、私たちはこうやってホテルに住まわせてもらっています。本当にありがたい」。 そうこうしていたら、トラックに乗った近所の人と思しき男性が前を通りがかり、互いに「元気だったか?」と会話が始まった。自然と始まる近所づきあいを見て、この地が8月まで住宅街だったこと、ごく普通の人の営みがここにあったことが伝わってきた。 マウイ島はハワイでもっとも観光に依存している島の一つとされるが、山火事後に観光客が激減し、失業者が増えているという報道もある。お金を落としてもらうために観光に来てほしいと訴える島民もいれば、そんな観光客を冷めた目で見る島民もいると聞く。被災の当事者として実際の心境はどうだろうか。 「そうね…」と女性はしばらく考えていた。そしてこのように言った。 「自分もそうだけど観光業に従事している者からすれば、島に観光で来てほしい気持ちは変わらない。だからと言ってどんどん来て!というのも違う。今でもこんな状態なのだから観光客に写真をバチバチ撮られるのも…ね」。女性は一呼吸置く。「私が言えるのは…被災地支援のためにお金使ってくれるのだとしたら、どうか島の東部に行ってほしい。観光で西には来ないで、今はまだ」。 最後の質問として、将来ここに戻り以前のような暮らしをしたい気持ちはあるのかと尋ねた。「わからないわ。今は水が汚染され、そもそも水道が出ない状態だから」「だけど水や電気が復活したら、またいつかは…ね」。 彼らにとってはここが「ホーム」なのだとわかった。 去り際、自然と“God…

米同時多発テロから22年。ニューヨークに住む人々にとって9/11はどんな日だったのか(後編)

9/11それぞれの記憶 (後編) 2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロから今年で22年。ニューヨークに暮らす人々はあの日どんな体験をし、何を感じたのか? 今年の9月11日に寄せて、人々に「あの日」を振り返ってもらった。 校長として子の安全を最優先。そしてビルで働く妹は… エイダ・ドルチさん(68歳、元・高校校長)の証言 私の経験は少しほかの人とは違うかもしれない。2001年、私はワールドトレードセンター(世界貿易センター、別名ツインタワー)から2ブロック南にある高校で校長をしていた。 リーダーシップ&パブリックサービス高校(Leadership & Public Service High School)という名の学校で、教室の窓からはトリニティ教会が見え、もう一方の窓の外には2つの巨大なビルがそびえ立っていた。 あの日の朝は晴れ晴れとした気持ちでスタートした。新学期5日目のこの日は市長選の予備選挙日で、我が校は初めて投票所としての役割を担うことになっていた。校内は整理整頓され準備万端で人々を迎えた。私はいつもより早めに出勤し、投票所の様子を見守った。(当時の市長候補マイケル・)ブルームバーグさんも投票のために来校予定で、今か今かと待っていた。 突然とてつもない大きな爆発音がした。窓から外を確認すると、上からたくさんの瓦礫や破片が降ってきた。投票所のセキュリティのために配備されていた警官は、すぐさま外に出て行った。事件を目撃した生徒の一人が「ドルチ先生、飛行機がビルに当たったようです」と言う。私は「飛行機?ヘリコプターとかではなくて?」と返答した。私は窓の外を見て神に祈った。妹のウェンディの職場は、北棟103階の証券会社だから。 そうこうしていたら15分ほどして、2つ目の激突音がした。この時は学校のロビーも揺れた。さらに上空からたくさんの瓦礫(後で考えると飛行機の破片だった)が降ってきて、非常に危険な状態になった。私は校長として全生徒の安全を守る責任があった。迷っている暇はなかった。全員いち早くこの場から去らねばならない! どのタイミングでどこに向かうべきか、判断を迫られた。どの学校でも火災に備え避難先を決めておくなどしっかりした防災マニュアルがあり、避難訓練を重ねてきた。しかしこれほどの規模は想定外だった。辺り一帯が「被災地」となり避難する場所が周囲にない状態だった。 ウェンディの安否が気がかりだったが、私は校長として全校生徒600人と教師を引率し、安全が確保できる場所に避難させる責務がある。妹のことを神にお願いし、とにかく私は安全第一で避難することに集中した。 私が選んだ避難先は、6ブロック南(マンハッタン最南端)のバッテリーパークだった。公園であれば避難許可もいらない。 全員無事にバッテリーパークに到着し園内を移動していたら、再び大きな音がした。今でもたまに頭の後ろの方から聞こえてくる、忘れられない爆音だ。同時に真っ黒で巨大なスモーク、瓦礫の塊がまるで津波のように我々の方に迫ってきた。人々は互いにぶつかり突き飛ばし突き飛ばされながら泣き喚いて逃げ惑った。割れたガラスの破片を背後から叩きつけられて、背中を切りつけられたような衝撃が走った。私は死ぬと思った。 この後、奇跡的に噴水を見つけた。こんなに近くにあるのに、噴水があるなんて知らなかった。見知らぬ男性が水を口に含んで洗浄し、吐き出せと言う。「私は校長です。(唾を吐き出すのは行儀が悪いので)吐きません」と抵抗した(!)。男性はスーツの上着を脱いで私たちのためにバラバラに引き裂き、それを水に浸して埃や粉塵まみれの顔を拭い、口をカバーしろと言った。 公園にあるレストランのキッチンも借りることができ、ナプキンを水に浸して口元を覆った。そんなことをしながら、私は生きていることに感謝した。 公園には1時間ほどいただろうか。その間もとても怖かった。ファイト・オア・フライト(戦うか逃げるか)*を迫られる出来事だったが、私たちは両方をやり抜いた。もがきながら戦い恐怖を耐え抜き、無事を確認した。 その後、小グループに分かれ、それぞれの自宅方向に避難させることにした。何人かの生徒は教師とフェリーに乗り、スタッテンアイランドを経由しニュージャージー州に避難させた。私はバッテリーパークに最後まで留まり、全生徒と教師の避難指示を出した。ウォーキートーキー*で教師と安否を確認し合い全生徒を見届けた後、同じ方角の生徒を引率し、私はマンハッタン橋を歩いて渡って自宅のあるブルックリンを目指した。 歩いている途中、ある女性と出会った。何て呼ぶか知らなかったが、頭を布で巻いているその女性は「怖い」と言った。「私も怖いわよ。でもあなたはそうやってカバーされているから大丈夫。一緒に頑張ってブルックリンに行きましょう」と伝え励まし合った。後にそれがヒジャブという名の布だと知った。 気がかりだった妹のウェンディだが、残念ながら彼女はもうここにはいない。 自宅のあるブルックリンに無事着いたら涙が溢れ出た。夫と話して落ち着きを取り戻し、やっとウェンディのことを考えることができた。避難中はとにかく生徒の無事を守ることで精一杯で、妹の安否を考える余裕がなかったから。しかし3〜4日経つと、妹は見つからないとなんとなく悟った。 妹の職場は証券会社のキャンター・フィッツジェラルドで、彼女は北棟の103階で働いていた。1機目の飛行機が衝突したのは北棟の96階あたりの複数のフロアだった。この会社は多くの従業員をこのテロにより失った。私の両親は、ほかの遺族と同様に、22年経った今でも悲しみが癒されることはない。 補足 1機目のアメリカン航空11便が衝突したのは、世界貿易センター北棟93〜99階の7フロア付近と言われている。証券会社キャンター・フィッツジェラルド(Cantor Fitzgerald)本社オフィスは、北棟の101〜105階にまたがっていた。ウェンディ・アリス・ロザリオ・ウェイクフォード(Wendy Alice Rosario Wakeford)さんなど、同社はこのテロで従業員658人を失った。 私は9年間校長を務め、2012年に早期退職した。以来、9/11の語り部として、教育現場や教師に伝える活動をしている。今年もこうして、9/11メモリアル博物館(911 Memorial Museum)による啓蒙イベントで証言をさせてもらい、機会を与えてもらっていることに感謝している。 補足 倒壊跡地にできた9/11メモリアル博物館では、学校や図書館を対象にしたデジタル学習体験イベントの一環として、Anniversary in the Theaters を実施。今年も昨年に引き続き、提携先のAMC(映画館チェーン)で無料上映イベントが行われ、遺族が証言者として登壇した。 なぜ私があの日の体験をこうやって話しているのか。ただの情熱からではない。このようなことがここで起こったからだ。経験した者として伝える必要がある。 アメリカにとって戦争とはいつも遠い場所で起こっているものだった。しかし9/11は私たちのすぐそばで起こった。私たちは黒煙と瓦礫まみれになりながら必死で逃げた。生きるために。でも残念なことに語り継がれている中には、ここにいなかった人の作り話が含まれる。実際に経験した者がどのようにあの地獄のトラウマから脱出できたか。その後何が起こったか。どうやって破片を拾い上げ立ち直ったか。どうやって前に進んだのかをありのままを伝えることがもっとも大切だ。 感情については、初めのころ考える余裕はなかった。校長という立場は飛行機を操縦するパイロットのようなもので、すべての生徒に対して責任を伴うからそれでいっぱいだった。でもしばらくすると私たちは怒りや憎しみのような感情が出てきた。この国にはそういう一面がある。でも私たちは悪いことや醜いこともたくさんしてきた。あなたの国にも。そして私たちに酷いことがリアルに起こり、テロとは何なのかがわかった。それは誰かを心から憎む酷い行為。 一方で、あの日あそこにいた人々は、互いにケアし助け合った。生徒の中には車椅子の子が2人いた。瓦礫だらけの道路では、車椅子を動かせない。しかし車椅子の生徒を運ぶのを手伝い、車に乗せてくれた人もいた。あの場にいた人だけではない。世界中から救援物資や思いやりのメッセージが届き、私たちの友人として心を寄せてくれた。これこそが私たちがずっとハングリーに求めてきたものだった。 伝える活動で、私はいつもこのように言っている。「自分が学校などコミュニティを作っていて、そこが信頼でき互いを思いやるコミュニティであるならば、このような悲惨なことが起こっても人々は助け合う考えが身についているので、怖いもの知らずですよ、と」。 私たちは今こそ、子どもたちに伝える番だ。より良い世界のためにどうしたら私たちは変わることができるのかと。だって結局のところはどうしたって、この地球で共に生きていかなければならないのだから。 関連記事(過去記事の一部) 米同時多発テロから22年。ニューヨークに住む人々にとって9/11はどんな日だったのか(前編) テロ発生後、現場に向かったヒーローたちの9.11 米同時多発テロから21年。ニューヨークに住む人々にとって9.11はどんな日だったのか(人生最悪の日を救ったヒーローたちと希望のトラック) 米同時多発テロから20年。ニューヨークに住む人々にとって911はどんな日だったのか 前編:日本人建築家の「あの日」、後編:近所に住んでいた俳優の「あの日」 20年の節目に、現地取材で感じたこと【NY 追悼式典】 グラウンドゼロだけではないNY911慰霊碑 日本人建築家が込めた思い…