先日、音楽編集者として私のキャリアのスタート地点の話を書いたばかりだが、そのスタート地点から大きく影響を与えてくださった方のことを、私は書き手として記録する者として、いったん涙を拭いて、ここに残しておく。
アストロ(佐々木喜美代)さんの訃報
昨夜、そろそろベッドに入ろうかと思っていた矢先、メッセンジャーが届いた。最初の数行を読んだところで、不幸があったことがすぐにわかった。
日本で勤めていた会社の上司の訃報だった。
訃報を知ってから、これまでのことが走馬灯のように思い出された。
その方は、アストロさんこと佐々木喜美代さん。
私が初めてアストロさんに会ったのは、1990年代初頭のことだった。
1990年代の出版社
私は新卒で入った会社の業務にどうしても馴染めず、せっかく憧れの一人暮らしを初めたのにたった4、5ヵ月で退職した。おとなしく実家に戻るか、このまま福岡市内に残って次の働き口を探すか、それより来月の家賃をどうするか。迷走していた。そんな中、たまたま読んだ福岡のタウン誌でアルバイトを募集していて、ピンと来て応募し、採用された。
バイトで入った出版社は、90年代当時からちょっと面白い会社だった。まず外観は、磯崎新設計のおしゃれなビルで、1階がレセプション、2階が会議室とカフェ「アリス」、3階が印刷会社、4階が出版社、5階が会議室という作り。日本の伝統的な企業とも既存の出版社とも違う、自由で先端的な空気があった。
今では外国人が社内に数人いるのは珍しくないかもしれないけど、90年代初頭の時点で、社内ではすでに英語が飛び交っていた。外国メディアの部署がありカナダ人、オーストラリア人、アメリカ人が働いていた。
見聞を広げるため、年に一度の社員旅行は海外へ社員全員で行く。忙しいながらもこのおかげで、私たちは様々な国を訪れ、異なる文化を体験した。
アストロさんとの出会い
そんな時代の先端をいくマスコミ企業で、創業編集長および出版局長をしていたのがアストロさんだった。
長身でバリバリのキャリアウーマン。仕事ができてめちゃくちゃかっこいい40代の女性だった。
しかも会社の役員という偉い立場なのに、先輩からはこっそり「アストロさんって呼ぶんよ」とまず教えられた。この会社では社長を「チーフ」、出版局長を「アストロさん」、営業局長を「浦田さん」と呼ぶ。部長や課長の肩書きもない。そんな社風も私は気に入った。
私のアルバイトとしての業務は、自分が希望した編集アシスタント、と言いたいところだが、残念ながらそのポジションではなかった。
その会社には「お助けバンク」というサービスがあった。読者が疑問に思ったことを電話で質問すると、通称「おたばん」スタッフが答えるというもの。今ならChatGPTが答えてくれるようなことを、30余年前は人間が電話で受け答えていた。
私はその「おたばん」として働き始めた。
おたばんの机はアストロさんのすぐ近く。
ちなみにアストロさんの机は、オフィスの真ん中。とても大きくてカーブを描いた、映画に出てくるような重厚でおしゃれなウッドデスク。いつもスタッフやゲストが、アストロさんのもとに相談に来ていた。
さて私。アストロさんの雑務を手伝うのも仕事の一つだった。
社会人としての経験が浅い20代そこそこの自分にできることはそう多くない。
新人でもできることは
まずは時間を守り、きちんと挨拶をする。
朝、アストロさんのコーヒーを入れて机まで持っていく。
アストロさんから「これ調べといて」「この資料出しておいて」という依頼に「はい!」と返事し、すぐに対応する。
そして電話が鳴ったら、明るく「はい、お助けバンクです」と電話に出て、読者の疑問に答える。
おたばんとしての給料は決して高くなく生活はギリギリだったが、同僚にも恵まれ、大学のサークルの延長のような雰囲気で、毎日ここに出社することがとても楽しく、充実した日々だった。
編集者としてのキャリア
そのような生活が1年ほど続いた頃、社内で正社員募集があり、私は迷わず採用試験を受けた。
3人の役員による面接だった。
「社員になったらこの会社で何したいと?」とチーフに質問された。「〜〜〜な本を作りたい…」そんな話をしたかな。会社の方向性と合わないようで、チーフに一笑に付された(苦笑)。アストロさんは終始朗らかな表情だった。
私は採用され、そこから私の雑誌編集者としてのキャリアが始まった。最初に任されたのは音楽ページの編集とインタビュアーだ。
アストロさんは私の人生の大きな扉を開いてくれた人の一人だった。
アストロさんから学んだこと
全国のタウン誌の編集者が一堂に会した新人研修では、情報発信者という責務についてまず教えられた。
ネットニュース全盛期の現代人にはピンとこないかもしれないが、紙媒体は一度入稿したら修正が効かない。
「間違った情報を世に出すことは会社を潰すことにもなりかねない。それくらい重い責任のある仕事」
私は身が引き締まる思いがした。
「街を歩く」「人に会う」という教え
「街を歩いて情報を掴む」「考える前に、人に会う」これもよくアストロさんに言われた。当時の私のメモにもアストロさんの言葉として残っている。
「考える前に」というのは、うだうだ考えるくらいだったら「外に出て人に会え」という教えだと解釈した。机上でいくらあれこれと考えていても解決しない。歩いたり人に会ったりしているうちに、いろんなアイデアが浮かぶ。
まず外に出る。街を歩く
人に会って話を聞く。
現場で自分の目と耳で確かめる。
取材で情報を集めて編むのが編集、その基本のキ。
ニューヨークでの再会
「質問というのはなんとなくするものではない」
私が2001年に会社を辞め、ニューヨークへ渡って1、2年が経った頃、アストロさんがニューヨークに遊びに来た。アート好きのアストロさんとMoMAに行き、カフェでランチをご馳走になった。
私は「最近、福岡どうですか?」となんの気なしに聞いた。自分では会話を作ろうとしたつもりだった。しかしアストロさんはにこやかな表情(でも厳しい言葉)でこう言った。
「せっかく聞かれたからきちんと答えてあげようと思うけど、そんなふわっとした質問じゃ、何を知りたいかわからんよ」
私は背筋が凍りついた。
(ここは私の解釈だが)質問に答えていただくのは、つまり相手の時間をいただくということ
質問というのは、なんとなくしちゃだめなんだ。
アストロさんからはっきりこのように言われたわけではないけど、この教えもこの経験を通して学んだ。
さらに私は「今朝は何したと?」「昨日は?」と、微笑みながらも矢継ぎ早に聞かれた。
正直に言うと、その頃の私はせっかくニューヨークに住んでいるのに、それほど仕事があるわけではなかった(編集の仕事に出合えておらず、もがいていた)。その数年後、私はニューヨークの出版社に就職するのだが、留学が終わってから就職までの期間はほとんど仕事のない状態で、日々を過ごしていた。
アストロさんは口元&目元に微笑みを浮かべながら、言いにくそうにこう言った。
「せっかくニューヨークに住んでいるのに、見ていて悔しい」
私のメンターであるアストロさんにはぜ〜んぶ、お見通しだった。
そして、元同僚のときちゃんのイギリス留学時代の話をし「彼女は寮の消灯後も懐中電灯をつけて本を読んでいたんよ」「私も毎朝早起きをして本を読んで勉強しよるよ」と、次々とたたみかけた(向上心のあるアストロさんは当時、大学院に通っていた)。
「もし私がニューヨーク取材ができる人の相談を受けた場合でも紹介せん」と言った。東京にいる知り合いの編集者に紹介してもらうのだと。
これは正直ぐさっときた。当時は多少の反発もあった。
だが年月が経つにつれ、アストロさんの言葉の裏には愛情があったこと、そして正しかったことに私は気づいた。
せっかくニューヨークまで来たのだから、もっとやりなさい。もっとこの街で何かをしなさい。そんな人生の先輩からの「喝」だった。
最近私も喝を入れる側の年齢になってきたのでわかるが、喝を入れる側も相当なエネルギーがいる。下手すると関係性が悪くなるので、多くの人はそれを躊躇する。それをあえて私のためにダメ出しをしてくださったのがアストロさんだった。
2022年と24年の再会
その後も、一時帰国時にイベントにみんなで参加したりしてお会いする機会はあったが、2010年代後半から会えない数年があった。しかしコロナ禍を経て、また自分も年齢を重ねるうちに、感謝の気持ちがあるならば互いが元気なうちに直接お伝えしたい、という思いが募るようになった。気持ちは自分で思うだけでは相手に伝わっていかないから。
2022年の一時帰国の際、アストロさんと数年ぶりにお会いした。マスク姿で少人数でご飯に行き、「あの時、喝を入れていただき、本当に感謝しています」と気持ちを伝えた。
アストロさんはいつものように微笑みながら「そんなこと言ったっけ?」と、あまりピンと来ていない様子だった。
でも私にとっては、20年越しに感謝を伝えられたことが何より嬉しかった。
こぢんまりとした食事会だったため、ゆっくり話すことができた。Netflixに代表されるアメリカのストリーミングサービス事情、ニューヨークの外食事情、物価事情、そしてアメリカ政治についていろいろ質問を受け、アストロさんは興味深そうに私の話を聞いてくれた。そして食事会に来ていた元同僚らに、「これが日本のメディアだけを見ていない人の意見よ」というようなことを仰った。
その時のアストロさんの言い方は叱ってくれた20年前とは明らかに違うもので、私への敬意が含まれているようにさえも感じられた(注:あくまでも私の主観です)。
後日、アストロさんは素敵なご自宅に私たちを招いてくださった。たくさん絵が飾られ、一枚一枚作品の説明をしてくれた。
リビングルームから見渡せる福岡の景色もとても爽快で素晴らしい眺めだった。
90年代に出会った頃の「最先端をいくかっこいい出版局長」という姿だけではなく、仕事を離れた一人の女性として、お茶目な一面も併せ持つ、自分にとっては憧れの上司だった。
24年の食事会では、体のどこかが悪いとかでお座敷に座れないと仰った。でも会うと普通にお元気そうな様子。人数が多くて前回のようにたくさん話ができなかった。早めにおいとまするアストロさんに「また元気で会いましょうね!次回はゆっくり話せるように少人数で」と声をかけ、お見送りした。
昨夜アストロさんが亡くなったと知り、突然の悲しい知らせに私は大きなショックを受けている。
でも不思議と後悔のような気持ちはない。それは私がすでにご本人に感謝の気持ちを直接伝えることができたからだろう。
私を出版社に入れてくれ、機会を与えてくれたこと。
新人研修で情報発信という仕事の責任を教えてくれたこと。
「街を歩く」「人に会う」という情報発信者としての基本のキを教えてくれたこと。
そして、ニューヨークで何もしていないに等しかった私に、あえて叱咤激励してくれたこと。
私が今、日々行っていることも、遡っていけばあの出版社での経験につながっている。そして、その入口にアストロさんがいた。
アストロさんは福岡という街になくてはならないレジェンド的な存在でした。これまでコミュニティへ尽力された多大なる貢献、そしてたくさんの教えを本当にありがとうございました。
どうぞ安らかにお眠りください。
【後記】その1. この記憶を残す過程で、偶然アストロさんについての記事を見つけた。
「街が動くとき、相談される人になりたかった」「『大名エリア』は人に会いに行く街」とあり、実にアストロさんらしいコメントだなと思った↓
その2. 新人研修を共に受けた同期の元同僚がこの記事を見つけてくれ、アストロさんが残してくれた教えがほかにもあったことを思い出した↓
「悔しいと思いなさい。悔しいと思う気持ちが人を成長させる」
ヘッダーイメージ: イメージ写真
Text by Kasumi Abe 安部かすみ

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