9.11それぞれの記憶
2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件から、今年で四半世紀となる。
ニューヨークに暮らす人々にとって、どんな日だったのか。25年後の9月11日に寄せて、今年もニューヨーカーに「あの日」を振り返ってもらった。
「近隣の飲食店が倒壊跡地の救助隊員を温かい食事で支えた」
サラ・デグナー・リヴェロスさん(大学教授)の証言
2001年、私は24歳の大学院生で、ニューヨークの狭い学生用アパートを2人のルームメイトとシェアして暮らしていました。
世界貿易センターは、私にとって楽しい思い出で包まれた場所でした。98年か99年ごろ、友人がニューヨークを訪れた時、北棟の最上階(106、107階)にあった眺めの良いレストラン「Windows on the World」に誘ってくれて食事をしたことがあります。また当時付き合っていた元夫とも世界貿易センターに立ち寄ったことがあります。
Windows on the Worldに関する「過去記事」
「またね」が息子・父・夫との最後の言葉に ── 3家族の9月11日
- 「父は最上階レストランでシェフとして働いていた」ヤリッザ・メレンデスさんの証言
米同時多発テロから24年。ニューヨークに住む人々にとって9.11はどんな日だったのか
- 「報道カメラマンの友人は死ぬ最期までシャッターを押し続けた」友人を失ったスティーブン・グローバスさんの証言
9月11日の朝、私は自宅にいました。アッパー・ウエストサイドのリバーサイド・ドライブにある建物の5階の小さな一室でした。
部屋にラジオはありましたがテレビはなかったので、1時間ほど、ルームメイトのクロックラジオでNPRのニュースを聞きながら、いったい何が起きているのかを理解しようと努めました。その後、テレビを観るために3階の親友の部屋に駆け込み、そこのソファで夕方までずっとテレビを見ながら、状況を追いました。
午後5時から近所の礼拝堂で犠牲者に祈りを捧げる集会イベントがあると知り、私も向かいました。私はパジャマ姿のままでした。なぜなら頭の中は恐怖心でいっぱいで、シャワーを浴びるのも着替えるのも億劫だったからです。私はまるでゾンビのように礼拝堂へ向かい、人々と共に祈りを捧げました。
ニューヨークがこんなことになり、シカゴやウィスコンシンにいる家族は私のことを心配していました。私も無事であることを伝えたかったのですが、電話はまったくつながりませんでした*。当時利用していたのはダイヤルアップ接続だったのでメールも使えませんでした。私の安否がわからず家族はパニックになったそうです。
- 世界貿易センターの通信設備が破壊されたことに加え、テロ直後に安否を確認する電話がいっせいに集中したため
テロの発生から数時間後、牧師の父がいる教会にやっと電話がつながりました。教会の事務担当者が私が生きていることを母に伝えてくれ、その後、祖父母とも連絡を取ることができました。
テロ後、私は情緒不安定になり落ち込むことが多く、眠れなくなっていました。家に引きこもるのではなく、外に出て支援が必要な人々のために何かしらの手助けをしたいと考えました。
私は当時通っていたコロンビア大学院の院生諮問委員会(Graduate Student Advisory Council)のソーシャルチェア(交流会担当者)の一員でした。そこでは学期末の交流会や月例の社交イベントの企画や運営をしていました。
倒壊現場にファーストレスポンダー(救助・復旧活動隊員)が滞在する場所として、赤十字のようなテントやシェルターができるだろうと学生らは考え、院生諮問委員会かほかの生徒会かは忘れましたが、とにかくメーリングリストを通じて学生に毛布の寄付を募り始めたことを知りました。私もボランティアとしてその活動に参加することにしました。
(9月は新学期のため)寮やアパートで新生活を始めた学生からたくさんの新品の寝具や物資が寄付されました。しかし次第に、それらがあまり必要とされていないことに気づきました。
そうこうしていると、倒壊現場近くにあったNINO’S(ニノーズ)というイタリアン・レストランが、キッチンのボランティアを募集していると誰かが教えてくれました。このレストランはテロ後に一時休業し、2日後には24時間営業の救援センター(リリーフセンタ)として、救助隊員らに食事を無料提供していたのです。

不眠症に悩まされていた私は、どうせ眠れないんだから夜間はそこで働こうと思い、応募しました。一人になるのが怖かったのもあります。ほかの人と一緒にいたかったのです。そして体を動かし、手を使い、思い切り疲れたかったのです。
午後は大学院に通い、夜間はキャンパス内の団体活動に参加したり、NINO’Sでボランティアとして働いたりする日々が始まりました。
私がNINO’Sで働いていたのは夕方から深夜にかけてです。NINO’Sには毎夜、大勢の消防士、警察官、救助隊員が食事にやってきました。
NINO’Sは食事を提供する場所だけでなく、休憩場所やマッサージを受ける場所でもありました。
- 報道によると、NINO’Sが無料で提供していたのは救助にかかわる警察官や消防士だけでなく、建設・解体作業員、電話会社や電力会社の従業員など、倒壊現場の救援・復旧にかかわった幅広い人々だった。

私のある日の作業は、翌日の朝食用に大量のベーコンを一枚ずつ剥がして準備することでした。脂でベトベトしていたのでよく覚えています。また別の日は大量の皿洗いをしました。パスタ用の大きな鍋やフライパンをひたすら洗った日もあります。時には料理やプリンなどをテーブルにサーブしました。
記憶にはなかったけど、元夫(当時の婚約者)へ出した絵葉書には、大量のジャガイモの皮を剥く作業のことも書いてあります。


救助活動にあたっている隊員はどの人も、体に白・灰色がかった粉塵がうっすらと積もっている状態でした。テロが発生した直後の数日間は特にひどかったです。煙の臭いも当初は強烈でした。日が経つにつれ、次第に薄れていきました。
長い作業を終えNINO’Sに戻ってきた彼らの中には、目がうつろな人もいました。ある時、その日の作業を終え、私は隊員の一人と一緒に自宅方面へ向かう地下鉄に乗車したのですが、彼がまるで空っぽになったような覇気のない目をしていたのを、今でもはっきりと覚えています。
NINO’Sのような支援活動をしたレストランが提供したのは無料の食事でしたが、単に温かい食事が取れる場所だけでなく、仲間と交流しくつろげる「癒しの場所」でもありました。テロで傷ついた我々には、そのような場所が必要だったのです。
私は忙しく日々を過ごしていました。しかしテロの約2ヵ月後、ニューヨーク発ドミニカ共和国行きの航空機が墜落し、260人以上の人が亡くなる事故*が起こりました。トラウマを抱えていた私は「また同じことが起こった」と思いました。この墜落事故はテロではなかったけれど、9.11の記憶に悩まされていた私の精神状態は再び悪化しました。
- 2001年11月12日にニューヨーク市内で発生したアメリカン航空587便墜落事故
私は今、ニューヨークから遠く離れたミネソタ州に、シングルマザーとして5人の子どもと3匹の犬、そして鶏たちと暮らしています。ニューヨークを離れたのは2004年。2007年に私は卒業式のために戻りました。また2025年に9.11関連イベントに参加するために、久しぶりにニューヨークを訪れました。グラウンドゼロ近くには新しいビルなどがたくさん建ち、私がいたころのニューヨークとは少し変わっていました。

今年は9.11から25年。グラウンドゼロでの追悼式典に今年就任したマムダニ市長が出席することについて、彼の過去の発言や言動が問題視され、論争が起きていると聞いています。
遠くから見る限り、私はマムダニ市長に好感を持っています。私が現在スペイン語を教えるミネソタ州の大学では、生徒の大半が低所得世帯の出身で、家族の中で初めて大学に進学しているケースです。家の近所にも多くの移民が暮らしています。マムダニ市長はそのような層の人々から支持を集めているように見えます。
もし私が「マムダニ市長は9.11の式典に出席すべきか」と問われれば「はい、そう思います」と答えるでしょう。だって彼は選挙で選ばれたニューヨーク市を代表する存在で、市長としてその指導的立場を担っているからです。
彼はニューヨーク市民を代表しているだけでなく、平和を愛し正義を重んじる人々の象徴でもあると思います。そうした人々とは、世界中の大多数のイスラム教徒のように、隣人や親族への優しさという形で自らの信仰を実践していると私が感じる人々のことです。今暮らす街で私はイスラム教徒の隣人や生徒と接しながら、彼らは近隣住民との共存を心から大切にしていると感じています。
私はこれまで、より良い人生を求めて各地を転々としてきました。全米はもとより海外でも大都市から小さな街まであらゆる土地で暮らしてきました。そこで出会ったすべての人、イスラム教徒、キリスト教徒、仏教徒、ユダヤ教徒、無神論者たちを自分の「隣人」として見るようにしてきました。
9.11後に一部の人が、イスラム教徒やシーク教徒、アラブ系の住民が暴力、脅迫、嫌がらせなどの対象となっている姿を目にしたことは、悲しく恐ろしいことでした。また9.11の首謀犯らを追及する過程で、アフガニスタンで多くの罪のない人々が殺され、住む場所を追われたことも本当に痛ましいことです。
一方で、トラウマや深い悲しみを経験している人にとって、私のように誰かを「隣人」として見ることが難しい場合もあることは理解しています。正式な裁判はいまだ始まっておらず、法廷の場で正義がもたらされるのを求めている遺族は、これほどの長い時間、どんな思いで待ち続けているでしょうか。そう考えると胸が締め付けられる思いです。たとえ裁判が始まり、テロリストに刑事責任を負わせることができたとしても、愛する人が戻ってくるわけではありません。

ただ、私はもしかすると一部の9.11生存者や遺族とは異なる意見を持っているかもしれません。私は当時ボランティアとして支援した経験があるだけで、私自身の家族や仕事、健康、家などをテロで失ったわけではないからです。私はあらゆる暴力に反対ですが、犠牲者や遺族を代弁する立場ではないでしょう。私の理解が及ばないもっと複雑な事情があるかもしれません。
私は常に遺族や犠牲者の気持ちや意見を尊重したいです。2つのタワーが崩れ、多くの人々が亡くなりました。あのテロによって深い傷を負い、愛する人を失った人々が抱えるトラウマや恐怖、悲しみ、喪失はあまりにも深く、私には計り知れないものです。
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- この記事はサラ・デグナー・リヴェロス氏のインタビューに基づき、読みやすさを考慮して筆者が執筆・編集したものです。
ヘッダーイメージ:© Kasumi Abe
Text and photos by Kasumi Abe 安部かすみ 本記事の無断転載禁止
安部かすみによる「9.11同時多発テロのその後」を追った、ニューヨークの世界貿易センター跡地をめぐる遺族や生存者の証言をまとめた記事を読む ↓
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