9.11それぞれの記憶
2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件から、今年で四半世紀となる。
ニューヨークに暮らす人々にとって、どんな日だったのか。25年後の9月11日に寄せて、今年もニューヨーカーに「あの日」を振り返ってもらった。
北棟48〜50階の日系銀行に勤務。「床が大きく前後にしなった」
ジョージ・ミロニスさん(北棟から避難した9.11サバイバー)の証言
私は1994年1月10日から、世界貿易センターの第1タワー(北棟)の48〜50階にあった第一勧業銀行(Dai-Ichi Kangyo Bank)に勤務していました。第2タワー(南棟)には同じグループ企業の富士銀行が入居し、仲間がそこにもいました。
富士銀行の支店に関する過去記事
私は毎朝、早めに出社する習慣がありました。午前8時30分までには、キオスクで買った新聞とコーヒーを手に、プラザ(世界貿易センターの広場)のベンチに座って、勤務前の朝の時間を過ごしていました。
それからオフィスのある上階へ上がり、仕事の準備をします。
私の仕事は、3フロアにまたがるオフィスのメンテナンスが主でした。
2001年9月11日、あの日は美しく晴れ渡った空が広がっていました。初秋としてはまだ暖かく、天候にも恵まれた日でした。
48階のランチルーム(休憩室)にある冷蔵庫にランチを入れに行こうとしたまさにその時、突然、背後から誰かに押されたような衝撃を感じ、ヒューという風切り音が聞こえました。
腕時計を見ると午前8時46分でした。私はとっさに昼食のタッパーをそこらに放り投げ、南東側にある自分の机の下に潜り込みました。
数秒後に立ち上がると、窓の外には上層階から大量の瓦礫や紙が落ちているのが見えました。そしてマネージャーや同僚たちは誰もいなくなっていました。机八つ分ほど離れた場所に銀行幹部の上司がおり、顔を見合わせました。「何が起きたの?」と聞かれ、私は「分かりません。上のレストラン(北棟の106・107階のウィンドウズ・オン・ザ・ワールド)で爆発でもあったのでしょうかね」と答えました。
上司と話していると、足元が大きく前後に2度、少なくとも5フィート(約1.5メートル)ほどしなったのを感じました。自分の周りに床以外は何も存在しないと思えるほどの大きな揺れで、恐ろしかったです。私は再び机の下に潜り込みました。
1、2分して立ち上がり窓の外を見ると、さらに多くの瓦礫がまるで激しい吹雪のように次々に落下していました。
上司は私に避難するように言いました。「あなたはどうするのですか?」と尋ねると「心配いりません、私は大丈夫です」と言っていました。
私は急いで休憩室へ走って戻り、3つのオフィスに誰もいないことを確認してから、自分の机からバッグを取り、窓の外に降り落ちる瓦礫の写真を急いで撮影しました。そして机の近くの非常口から出て、非常階段を下りることにしました。
上階から降りてきた人々と合流し一緒に階段を下りていると、「怪我人を搬送するので右側に寄ってください」というアナウンスが聞こえてきました。髪の毛がすべて焼けて泣き叫んでいる女性や両腕に火傷を負った男性を見かけ、恐ろしい光景でした。いったい何が起きたのかさっぱりわからず、不安で仕方なかったです。
さらに10〜15階ほど降りたところで、それぞれ肩に予備のホースを担いだ完全装備の消防隊員が上がってきました。そのうちの一人、すっきりした顔立ちの若い消防士が私の肩に左手を置き、「心配しないで。我々は大丈夫ですよ」と声をかけてくれました。彼らは職務を果たすために現場へと向かって行ったのです。この時も私は何が起きたのかまだ分かっていませんでした。
さらに下の階へ下りると、警察官や消防士が人々にボトル水やソフトドリンクを配っていました。このおかげでしばらくの間、顔や首元を冷やすことができました。
その後、照明が薄暗くなりました。スプリンクラーからは水が出た状態で、うっすらと煙が立ち込めていました。バルコニーに到達すると、警察官とポートオーソリティー(ニューヨーク・ニュージャージー港湾公社)のスタッフが避難口へと案内してくれました。バルコニーからプラザを見下ろすと、何か大きなものが燃えていました。ロビーには新聞紙をかぶせられた2つの遺体が横たわっていました。
私たちは第5ビル(5 WTC)へと続く階段へ向かいました。これが後に知られることになる「Survivors’ Staircase」(生存者の階段)です。

気がつくと私は(第5ビルの)ボーダーズ書店(Borders Bookstore)前にいました。路上には紙切れが散乱し、人々は悲鳴を上げ、泣き叫んでいました。
WTCのビルを見上げると、上階は地獄絵図のように激しく燃え上がっており、巨大な煙が雲のように立ち上っていました。私はこの時も何が起こったのかわかっていませんでした。周囲の人々に尋ねると、「映画の撮影か何かかな」と言う人もいました。別の人が「飛行機2機がそれぞれのビルに突っ込んだ」と教えてくれました。
(2ブロック先の)ホテルと聖パウロ礼拝堂(St. Paul’s Chapel)の間の通りの真ん中には、飛散したガラスに当たったであろう女性の遺体が新聞紙をかぶせられ、横たわっていました。帽子、サングラス、靴、ハンドバッグなど、その女性の所持品と思われるものが散らばっていました。
周囲は消防車やパトカーのサイレン、バスや車のクラクションが鳴り響き、茫然自失で走り回る人々で大混乱していました。
パーク・ロウ(Park Row)へと向かって歩き始めた時、まるで怪物が唸るような凄まじい音が聞こえたので振り返ると、第2タワー(南棟)が崩壊していました。
聞いたこともないような凄まじい音とともに、ビルはまるでパンケーキのように重なり合って崩れ落ちていきました。
その後の調査によると、倒壊(倒壊開始から最初の外壁パネルが地面に達するまで)にかかった時間はわずか9秒ほどだったそうです。110階建てのビルがこれほどの速度で崩れ落ちるなんて、誰が信じられましょうか。
第2タワー(南棟)の崩壊後、巨大な粉塵の雲(煙)が広がり始めました。その雲(煙)は2回ほど旋回したかと思うと、私が立っていた場所に向かって一気に押し寄せ、膝のあたりに冷気を感じました。
(崩壊直前だとされる)粉塵の雲(煙)の写真は、後にThe Face of the Devil(Satan’s Face=悪魔の顔)と名付けられました(写真を数秒間じっと見ていると、その顔が浮かび上がってくる)。
粉塵の雲に飲み込まれる前に私は走り出しました。時折後ろを振り返りながら逃げました。
通信は完全に遮断し、携帯電話も公衆電話も通じず、私は何度も家族に電話をかけようと試みましたが、まったく繋がりませんでした。それで公衆電話をずっと探し続けました。北方面へ歩いていると、さまざまな店が歩道にテレビやラジオを出し、人々と最新情報を共有していました。一部の店舗ではボトル水やソフトドリンクを無料配布していました。
地下鉄は動いていなかったけど、水上ルート(フェリーやボート)が稼働しているようでした。
道中、二つの病院の脇を通りました。最初の病院の名前は覚えていませんが、二つ目は7番街12丁目に当時あったセント・ヴィンセント病院(St. Vincent Hospital)です。どちらの病院も救急車が負傷者を次々と搬送し、人々で大混雑していました。
道中、ビジネススーツ姿の人々も大勢目にしました。男性も女性も全身、頭から足先まで埃まみれで、まるでゾンビのようでした。
そのころ、私の妻のローラと娘のラニア、息子のピーターは無事に帰宅し、親戚らとニュースを見守っていたそうです。私と妻が育てていた孫娘のノエル-イオアナは当時、学校でニュースを知ったそうです。彼女は周りに「おじいちゃんは世界貿易センターで働いているの」と泣きながら話していたそうです。
北方面に向かって歩き続けると、6番街の25〜26丁目あたりに着きました。公衆電話に並ぶ人々の列が見えたので自分も列に並びました。その電話は通話が無料で開放されていました。順番が回ってきてようやく家族と話すことができ、互いの声を聞いて胸がいっぱいになりました。通話まで1時間半待ちの状態でしたから、私の後ろにも人々が順番を待っていました。私は家族との電話をできるだけ短くすませました。

それから西方面へ向かいました。命を救ってくださった神に感謝の祈りを捧げるため、24丁目と9番街の近くにあるギリシャ正教のSt. Elefterios Church(St. Eleftherios’ Greek Orthodox Church、聖エレフテリオス教会)に行きましたが、教会は閉まっていました。それでも私は建物の外で祈り「神は私と共にいてくださった」と心の中でつぶやきました。
そのまま歩き続け、32丁目の12番街まで行くと、長い長い行列が42丁目まで続いていました。フェリーボートに乗るための列だと知らされ、私もその列に並びました。太陽が照りつける暑い中、3時間半ほど待ってようやくフェリーに乗ることができ、ハドソン川の対岸にあるニュージャージー州ウィーホウケン(Weehawken)まで移動しました。
船を降りると至る所にテントが張られ、大勢の医療スタッフが被災者の治療にあたっていました。私は家族に迎えに来てもらうために電話を借りられないかと尋ねたのですが、断られました。その代わりに「できるだけ自宅近くで降ろしてくれるバスが出ている」と教えてくれました。バスに乗車することができ、自宅の3ブロック手前で降ろしてもらえました。
家族との再会では抱き合ってキスし、号泣しました。同時に私はすっかり疲れ果ててしまい、冷たいビールをお願いしたのですが飲むまでもなく、気がついたらそのままソファで寝落ちしてしまいました。


私の安否確認のため、その日の夕方遅くに銀行の日本人マネージャーから自宅に電話がありました。私の無事を妻が伝えてくれ、彼らは安堵した様子だったそうです。「明朝、出社するように」とのメッセージが伝えられました。
翌朝はいつものように早起きすることはできなかったけど、それでもニュージャージー州ジャージーシティのグローブ・ストリート(Grove St.)に向かいました。そこには災害復旧の拠点が新設されました。椅子や机はなく、見た目はまるで難民テントのようでした。我々はしばらくの間、床の上で作業をしました。
私の所属していた不動産管理部門などのスタッフは、社員が仕事に復帰できる準備のために膨大な作業をこなさなければなりませんでした。9月の最終週にそれを完了させるため、1週間家族と離れ、近くのホテルに泊まり込んで働きました。
すべての作業が完了し、マネージャーがスタッフを夕食に連れて行ってくれました。その夕食の席で、マネージャーからあとどのくらいこの銀行で働く予定かと聞かれました。私は「神の御心次第ですが、あと1年したら定年退職の書類を提出するつもりです」と答えました。マネージャーは「ジョージ、これまで本当にお疲れ様でした」といった趣旨のことを言い、私の定年退職を喜んでくれました。
しかし翌年3月中旬、マネージャーが私の机にやって来て、こう告げました。
「ジョージ、4月8日が君の最終出社日です」と。つまり私はレイオフされたのです。これは私にとって大打撃でした。とてもショックで落ち込みました……。
しかし、それでも私は生きている! そしてこれが人生というものです。
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- この記事はジョージ・ミロニス氏の記録、およびインタビューに基づき、読みやすさを考慮して筆者が執筆・編集したものです。
ヘッダーイメージ:グラウンドゼロのイメージ写真
Text and photos by Kasumi Abe 安部かすみ 本記事の無断転載禁止
安部かすみによる「9.11同時多発テロのその後」を追った、ニューヨークの世界貿易センター跡地をめぐる遺族や生存者の証言をまとめた記事を読む ↓
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