2025年9月11日、ニューヨークは24年前の朝と同じ、雲一つない快晴に恵まれた。世界貿易センタービル(WTC)跡地のグラウンドゼロでは追悼式典が行われ、今年も多くの関係者が参列した。 遺族代表が壇上で犠牲者一人ひとりの名を読み上げ、参列者は旅客機がビルに激突し、倒壊した同時刻に黙祷を捧げた。
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米同時多発テロから24年。ニューヨークに住む人々にとって9.11はどんな日だったのか(番外編)
9/11それぞれの記憶 2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件から今年で24年。人々はあの日どんな体験をし何を感じたのか、毎年ニューヨーカーに取材し「あの日」を振り返ってもらっています。今回はテロ事件の「その後」を追っている記者に話を聞きました。 – テロの「その後」:実行犯を指示した主犯格の軍事裁判を長年取材 ジョン・ライアンさん(ジャーナリスト、『Lawdragon』共同創設者)の証言
米同時多発テロから24年。ニューヨークに住む人々にとって9.11はどんな日だったのか
9/11それぞれの記憶 2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件から今年で24年。ニューヨークに暮らす人々はあの日どんな体験をし、何を感じたのか? Photo: (c) Kasumi Abe
「空気中に蒸発した長男…」息子を9.11で失った日本人父の苦悩【米同時多発テロから22年】
静寂な空気に包まれる中、目を閉じると両側にある噴水の水しぶきの音だけが聞こえてくる。 ニューヨークの世界貿易センタービル跡地「グラウンド・ゼロ」では、現地時間9月11日の午前8時30分から、追悼式典が開かれた。 今年も壇上では、遺族が交代で亡くなった1人ひとりの名前を読み上げた。ハイジャックされた4機の旅客機がビルに突入、倒壊、墜落した同時刻には鐘が鳴らされ、人々は黙祷を捧げる。 今年は主催者側から取材班に、鐘の時間だけはカメラのシャッターを切らないようにと注意があった。よって黙祷を遮る雑音がなく、その瞬間は神聖で清らかな噴水の音だけが耳に入ってきたのだ。筆者も全犠牲者に祈りを捧げた。 その噴水は北棟と南棟の跡地に作られた「ノースプール」「サウスプール」と呼ばれるもので、その枠に設置された慰霊碑には犠牲者全員が刻銘されている。 名前に手を当て離れようとしない人、しばらくじっとして空を見上げ祈る人、犠牲者の写真を大切そうに抱えた男性、生後間もない赤ん坊を抱っこし参列している女性などの姿があった。残された家族や友人は22年経った今も犠牲者を思い、深い悲しみの中にあることを窺い知った。 花束を持った一人の女性が名前を探し切れず彷徨っていた。この日スタッフに教えてもらった方法があるので、私はそっと声をかける。9/11メモリアル博物館のウェブサイトで検索すると、犠牲者の名がどこに刻まれているかをマップが示してくれるのだ。その方法ですぐに名前は見つかり、女性は私の腕に手を当てながらお礼を言い、花束を慰霊碑に手向けた。 遺族用の貴賓席には、日本人らしき男性が座っていた。私はチャンスを窺い、声をかけた。 住山一貞(すみやまかずさだ)さん(86歳)。テロの犠牲となった杉山陽一さんの父親だ。陽一さんは当時、世界貿易センター内の富士銀行(現・みずほ銀行)で総務の仕事をしていた。 「ちょっと一息ついていいですか。今月8日に家内と二人でニューヨーク入りしたんですが、ここに来るまでだいぶん取材があったもんで疲れてしまって…」。住山さんはそう言って、関係者が気を利かせて持って来てくれた水を口に含んだ。 一息入れ、住山さんは当時のことをこのように回想した。 「長男の陽一はサウス(南棟)で働いていました。富士銀行の大部分の方は避難したんだけど、保安や警備の責任者と支店長は、保安のために一旦避難した後、オフィスに戻ったんです。そこへ飛行機が突っ込んできたと聞いています」 陽一さんがニューヨークに赴任し、わずか1年ちょっと経った後の事件だった。「息子と最後に会ったのは…。実は事件の2ヵ月前の7月、私は妻と一緒に会いに来ているんです。息子家族はニュージャージーに住んでいて、仕事が休みの時に彼らがサウスタワーの展望台に案内してくれました」。 事件が起こった日については、こう語る。 「私は日本にいて、テレビでテロを知りました。陽一が行方不明だと知ったのは、事件から3、4時間後、もっと後かな。とにかく夜中に東京の本社から電話があり、多くの方は1階に避難したけど、まだ来ていない方が何名かいると。その中に息子も入っていると告げられました」 筆者がアポなしで話しかけ、快く取材に対応してくれた住山さん。表情も口調もとても優しく穏やかだ。 おそらく遺族としてもっとも酷な記憶だろうと思い、最大限の気配りとして答えられる範囲でお願いしますと前置きをしつつ、陽一さんは発見されたのかを確認すると、住山さんは静かにこう言った。 「体のほんの一部ですね。ボディ自体は見つかっていない」 住山さんは事件後、何度もニューヨークを訪れた。イーストリバーの近くにある市の施設に当時、遺体が収容されていた。「陽一の遺体の一部が発見されたのは10月くらいだった。メディカル・イグザミナー(監察医)は大きなご遺体から順番にDNA鑑定をするのですが、陽一のは小さいので、DNAで身元が判明したのは翌年の3月、4月ごろでした」。 倒壊現場から発見された遺体の一部(骨片など)は損傷が激しいためDNA鑑定が非常に難しく、22年経った今でもDNA鑑定が続いている。今月8日の時点で新たに2人の身元が判明したと発表があった(男性1人と女性1人)。 「22年経っても犠牲者の40%にあたる1104人とまだ照合できていない」と8日付のCNBCは報じた。 DNA鑑定のペースは年を追うごとに落ちていき、こんにち判明しているのは年に1人程度だ。別の2人の身元が判明したのは2年前、2021年のことだった。 ◉ DNA鑑定が難しい理由を以前の記事で書きました ↓ 20年の節目に、現地取材で感じたこと【米同時多発テロ NY追悼式典】 アメリカ同時多発テロから20年「まだ終わっていない」… NY倒壊跡地はいま 最後にテロ発生から22年が経ち、今の心情について尋ねると、このように語った。 「もう私もだいぶん年になりまして、まぁぼつぼつ会えるかなという感じもしていますけれども」 そんなこと言わないでと筆者は住山さんの背中に手を当てる。この後30秒以上の長い沈黙が続き、遠くを見ながらこう言った。 「コロナが始まるまでは毎年来ていたんですが、しばらく来れなくなりました。今回は4年ぶりに来ることができ、息子の近くに来られてよかったなと、そういう感じがしています」 「発見されないままの遺体の大部分はイグザミナーの方がおっしゃるには『エヴァポレート(蒸発)した』ということです。ですので、息子はニューヨークの空気の中にいると思っています」 過去記事 Interview and Text by Kasumi Abe (Yahoo!ニュース エキスパート「ニューヨーク直行便」(c) 安部かすみより一部転載)本記事の無断転載・AI学習への利用 禁止
米同時多発テロから22年。ニューヨークに住む人々にとって9/11はどんな日だったのか(後編)
9/11それぞれの記憶 (後編) 2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロから今年で22年。ニューヨークに暮らす人々はあの日どんな体験をし、何を感じたのか? 今年の9月11日に寄せて、人々に「あの日」を振り返ってもらった。 校長として子の安全を最優先。そしてビルで働く妹は… エイダ・ドルチさん(68歳、元・高校校長)の証言 私の経験は少しほかの人とは違うかもしれない。2001年、私はワールドトレードセンター(世界貿易センター、別名ツインタワー)から2ブロック南にある高校で校長をしていた。 リーダーシップ&パブリックサービス高校(Leadership & Public Service High School)という名の学校で、教室の窓からはトリニティ教会が見え、もう一方の窓の外には2つの巨大なビルがそびえ立っていた。 あの日の朝は晴れ晴れとした気持ちでスタートした。新学期5日目のこの日は市長選の予備選挙日で、我が校は初めて投票所としての役割を担うことになっていた。校内は整理整頓され準備万端で人々を迎えた。私はいつもより早めに出勤し、投票所の様子を見守った。(当時の市長候補マイケル・)ブルームバーグさんも投票のために来校予定で、今か今かと待っていた。 突然とてつもない大きな爆発音がした。窓から外を確認すると、上からたくさんの瓦礫や破片が降ってきた。投票所のセキュリティのために配備されていた警官は、すぐさま外に出て行った。事件を目撃した生徒の一人が「ドルチ先生、飛行機がビルに当たったようです」と言う。私は「飛行機?ヘリコプターとかではなくて?」と返答した。私は窓の外を見て神に祈った。妹のウェンディの職場は、北棟103階の証券会社だから。 そうこうしていたら15分ほどして、2つ目の激突音がした。この時は学校のロビーも揺れた。さらに上空からたくさんの瓦礫(後で考えると飛行機の破片だった)が降ってきて、非常に危険な状態になった。私は校長として全生徒の安全を守る責任があった。迷っている暇はなかった。全員いち早くこの場から去らねばならない! どのタイミングでどこに向かうべきか、判断を迫られた。どの学校でも火災に備え避難先を決めておくなどしっかりした防災マニュアルがあり、避難訓練を重ねてきた。しかしこれほどの規模は想定外だった。辺り一帯が「被災地」となり避難する場所が周囲にない状態だった。 ウェンディの安否が気がかりだったが、私は校長として全校生徒600人と教師を引率し、安全が確保できる場所に避難させる責務がある。妹のことを神にお願いし、とにかく私は安全第一で避難することに集中した。 私が選んだ避難先は、6ブロック南(マンハッタン最南端)のバッテリーパークだった。公園であれば避難許可もいらない。 全員無事にバッテリーパークに到着し園内を移動していたら、再び大きな音がした。今でもたまに頭の後ろの方から聞こえてくる、忘れられない爆音だ。同時に真っ黒で巨大なスモーク、瓦礫の塊がまるで津波のように我々の方に迫ってきた。人々は互いにぶつかり突き飛ばし突き飛ばされながら泣き喚いて逃げ惑った。割れたガラスの破片を背後から叩きつけられて、背中を切りつけられたような衝撃が走った。私は死ぬと思った。 この後、奇跡的に噴水を見つけた。こんなに近くにあるのに、噴水があるなんて知らなかった。見知らぬ男性が水を口に含んで洗浄し、吐き出せと言う。「私は校長です。(唾を吐き出すのは行儀が悪いので)吐きません」と抵抗した(!)。男性はスーツの上着を脱いで私たちのためにバラバラに引き裂き、それを水に浸して埃や粉塵まみれの顔を拭い、口をカバーしろと言った。 公園にあるレストランのキッチンも借りることができ、ナプキンを水に浸して口元を覆った。そんなことをしながら、私は生きていることに感謝した。 公園には1時間ほどいただろうか。その間もとても怖かった。ファイト・オア・フライト(戦うか逃げるか)*を迫られる出来事だったが、私たちは両方をやり抜いた。もがきながら戦い恐怖を耐え抜き、無事を確認した。 その後、小グループに分かれ、それぞれの自宅方向に避難させることにした。何人かの生徒は教師とフェリーに乗り、スタッテンアイランドを経由しニュージャージー州に避難させた。私はバッテリーパークに最後まで留まり、全生徒と教師の避難指示を出した。ウォーキートーキー*で教師と安否を確認し合い全生徒を見届けた後、同じ方角の生徒を引率し、私はマンハッタン橋を歩いて渡って自宅のあるブルックリンを目指した。 歩いている途中、ある女性と出会った。何て呼ぶか知らなかったが、頭を布で巻いているその女性は「怖い」と言った。「私も怖いわよ。でもあなたはそうやってカバーされているから大丈夫。一緒に頑張ってブルックリンに行きましょう」と伝え励まし合った。後にそれがヒジャブという名の布だと知った。 気がかりだった妹のウェンディだが、残念ながら彼女はもうここにはいない。 自宅のあるブルックリンに無事着いたら涙が溢れ出た。夫と話して落ち着きを取り戻し、やっとウェンディのことを考えることができた。避難中はとにかく生徒の無事を守ることで精一杯で、妹の安否を考える余裕がなかったから。しかし3〜4日経つと、妹は見つからないとなんとなく悟った。 妹の職場は証券会社のキャンター・フィッツジェラルドで、彼女は北棟の103階で働いていた。1機目の飛行機が衝突したのは北棟の96階あたりの複数のフロアだった。この会社は多くの従業員をこのテロにより失った。私の両親は、ほかの遺族と同様に、22年経った今でも悲しみが癒されることはない。 補足 1機目のアメリカン航空11便が衝突したのは、世界貿易センター北棟93〜99階の7フロア付近と言われている。証券会社キャンター・フィッツジェラルド(Cantor Fitzgerald)本社オフィスは、北棟の101〜105階にまたがっていた。ウェンディ・アリス・ロザリオ・ウェイクフォード(Wendy Alice Rosario Wakeford)さんなど、同社はこのテロで従業員658人を失った。 私は9年間校長を務め、2012年に早期退職した。以来、9/11の語り部として、教育現場や教師に伝える活動をしている。今年もこうして、9/11メモリアル博物館(911 Memorial Museum)による啓蒙イベントで証言をさせてもらい、機会を与えてもらっていることに感謝している。 補足 倒壊跡地にできた9/11メモリアル博物館では、学校や図書館を対象にしたデジタル学習体験イベントの一環として、Anniversary in the Theaters を実施。今年も昨年に引き続き、提携先のAMC(映画館チェーン)で無料上映イベントが行われ、遺族が証言者として登壇した。 なぜ私があの日の体験をこうやって話しているのか。ただの情熱からではない。このようなことがここで起こったからだ。経験した者として伝える必要がある。 アメリカにとって戦争とはいつも遠い場所で起こっているものだった。しかし9/11は私たちのすぐそばで起こった。私たちは黒煙と瓦礫まみれになりながら必死で逃げた。生きるために。でも残念なことに語り継がれている中には、ここにいなかった人の作り話が含まれる。実際に経験した者がどのようにあの地獄のトラウマから脱出できたか。その後何が起こったか。どうやって破片を拾い上げ立ち直ったか。どうやって前に進んだのかをありのままを伝えることがもっとも大切だ。 感情については、初めのころ考える余裕はなかった。校長という立場は飛行機を操縦するパイロットのようなもので、すべての生徒に対して責任を伴うからそれでいっぱいだった。でもしばらくすると私たちは怒りや憎しみのような感情が出てきた。この国にはそういう一面がある。でも私たちは悪いことや醜いこともたくさんしてきた。あなたの国にも。そして私たちに酷いことがリアルに起こり、テロとは何なのかがわかった。それは誰かを心から憎む酷い行為。 一方で、あの日あそこにいた人々は、互いにケアし助け合った。生徒の中には車椅子の子が2人いた。瓦礫だらけの道路では、車椅子を動かせない。しかし車椅子の生徒を運ぶのを手伝い、車に乗せてくれた人もいた。あの場にいた人だけではない。世界中から救援物資や思いやりのメッセージが届き、私たちの友人として心を寄せてくれた。これこそが私たちがずっとハングリーに求めてきたものだった。 伝える活動で、私はいつもこのように言っている。「自分が学校などコミュニティを作っていて、そこが信頼でき互いを思いやるコミュニティであるならば、このような悲惨なことが起こっても人々は助け合う考えが身についているので、怖いもの知らずですよ、と」。 私たちは今こそ、子どもたちに伝える番だ。より良い世界のためにどうしたら私たちは変わることができるのかと。だって結局のところはどうしたって、この地球で共に生きていかなければならないのだから。 関連記事(過去記事の一部) 米同時多発テロから22年。ニューヨークに住む人々にとって9/11はどんな日だったのか(前編) テロ発生後、現場に向かったヒーローたちの9.11 米同時多発テロから21年。ニューヨークに住む人々にとって9.11はどんな日だったのか(人生最悪の日を救ったヒーローたちと希望のトラック) 米同時多発テロから20年。ニューヨークに住む人々にとって911はどんな日だったのか 前編:日本人建築家の「あの日」、後編:近所に住んでいた俳優の「あの日」 20年の節目に、現地取材で感じたこと【NY 追悼式典】 グラウンドゼロだけではないNY911慰霊碑 日本人建築家が込めた思い…
米同時多発テロから22年。ニューヨークに住む人々にとって9/11はどんな日だったのか(前編)
9/11それぞれの記憶 (前編) 2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件から今年で22年。ニューヨークに暮らす人々はあの日どんな体験をし、何を感じたのか? 22年目の9月11日に寄せて、人々に「あの日」を振り返ってもらった。 「現実世界そして想像をも超える出来事だった」 タニア・リベラさん(50歳、植物園コーディネーター)の証言 2001年、私は大学生でブルックリンにある大学に通っていた。 あの日はいつもの朝で、私は地下鉄に乗り、自宅のあるブロンクスからブルックリンの私が通うNew York City Technical College (現・New York City College of Technology)へ向かっていた。 私の乗る電車はいつもブロンクスからマンハッタンを南下し、ワールドトレードセンター(世界貿易センター、別名ツインタワー)の真下にある駅を通過してブルックリンに向かう。しかしその日の朝、電車はツインタワーの直前で急に停止した。具体的にどの駅だったかを覚えていないが、ビルのすぐ近くだったことは確か。警官がホームにいて「全員降りろ」「駅を出て避難しろ」と叫んだ。 でも誰も動こうとしなかった(!)。ほら、ニューヨーカーってこういう時に文句を垂れるわけよ。「なんでだよ」「仕事に遅刻するじゃないか」って。私も気持ちばかりが焦った。だってこの日は試験があったから絶対に遅刻できなかった。この時点で、私を含めて事の重大さに気づいている人は誰もいなかった。 でも電車が動かないんだもの、駅を出るしかない。それで乗客は不満ながらゾロゾロと電車を降り、地上に出た。 そこで見たもの。 空にはたくさんの煙が立ち上っていた。途轍もないほどの黒い煙。 Photo 私の頭の中は真っ白になった。 そして人々は叫んだ。「Gone!」「World Trade Center was Gone!」(ワールドトレードセンターが消えた、無くなった)と。 無くなったってどういう意味よ?私の頭の中はさらに混乱した。そしてそんな中でも、私はまだ学校のことを考えていた。電車が動いていないのであれば、どうやって学校まで行くべきか…。 今考えると、この時は最初のビル(南棟)が倒壊した後だった。消防車や救急車のサイレンが鳴り響く中、たくさんの煙と人々の混乱ぶりから、私はやっと何が起こっているのかわかった。それは私たちは今、何らかの攻撃を受けているということだった。そしてGoneが“本当のGone”だと理解した。この時点で次に何が起こるかは誰もわかっていない。とにかく怖かった。 私はこの現場を今すぐ離れなければと、人々と一緒に必死で逃げた。走って走って走って…。もう疲れて走れないっていうところまでたどり着き、後ろを振り返ると、ビルが燃えていた。逃げ惑う人の中には、倒壊の影響で灰や泥まみれの人や泣き叫んでいる人もいた。私はとにかく家に帰ろうと思った。もうそのころには大学のテストのことなど忘れていた。 バスがまだ動いていたけどどのバスも人でごった返し、歩くしかなかった。長い道のりを歩きながらも、やはり頭の中ではいろんな思いや感情がぐるぐる回った。これは一体何なの?何が起こっているの?理解に苦しんだ。 (中心地タイムズスクエアの)42丁目に差し掛かった辺りで、やっとアップタウン行きの地下鉄に乗ることができた。無事に家に帰り着き、ニュースで状況を確認していた家族から話を聞いた。その日は丸1日ずっとテレビにかじりつき、状況を見守った。* 1機のみならず2機がビルにぶち当たり、あんな巨大な建物がまさか「倒壊」するとは、誰が想像しただろうか。火災に耐えられず、ビルの上階から人々が次々に飛び降りた。実際に起こっていることだけど現実として到底捉えられなかった。それはまさにサーリアルだった(現実世界や想像の世界を超えていた)。 それとねワールドトレードセンターと言えばもう1つ言っておきたいことがあるのだけど、私は事件の2週間前、ビルの上にあるウインドウズ・オン・ザ・ワールド*の仕事の面接のオファーをもらっていたの。私の専攻はホスピタリティ・マネージメントだから、就職活動で教授が推薦リストを提示してくれた中にこの店があった。だけど私は閉所恐怖症で、狭い密閉空間が大の苦手なの。毎日狭いエレベーターに乗ってビルの上まで行く自信がなかった。もったいない話とは承知していたけど面接には行かなかった。教授を苛立たせてしまうことになったけど、私的にはどうしても無理だった。 あれから22年経つけど、この日の感情を一言で表すならば「ショック」としか言いようがない。一生涯忘れられない衝撃的な出来事だった。そしてすべてのビジュアルが1コマ1コマ詳細に、まるで昨日のことのように思い出す。乗っていた地下鉄が止まったことから始まり、次にイラっとした気持ち。そして警官が来て降車しろという指示…。事件後にしばらく休講となった大学がいつ再開したのかなどは、まったく記憶にないんだけど。 もし私が閉所恐怖症でなかったならば、あの日ビルの最上階にいたかもしれないし、いなかったかもしれないし。とにかく私は神様に感謝した。不思議なのは、人によってはあのビルで働いていてもあの日たまたま用事があったり電車に乗り遅れたりしてビルにいなかったり、また人によってはそこで働いていないのにたまたま行ってテロに巻き込まれたり…。神様が選んだと思う? この事件に限らずとも、いろんな事件や事故で善人が殺され悪人が生き残ったりする。誰が生き残り、命を落とすか、その運命を分けるのは何だろうって時々考えるの。私なりに到達した答えはランダムで起こっているってことかなと。数字(乱数)っていうことよ。この考えが私的には腹落ちする。 正直な気持ちを話すとね、いつか再び何かが起こるような気がしなくもないの。私だけではなく同じように薄々思っている人はほかにもいると思う。だってテロリストはまだいるわけでしょう?彼らは数年かけて計画を練り、時を窺っている。9/11の随分前にビルの地下で起こった事件*だって犯人はあれで十分ではなかったから9/11を企んだ。ニューヨークは人口密度が高いし、金融機関が集まる都市だからテロリストにとって絶好のターゲットでしょう。 9/11の後、人々は変わったか? このようなテロ事件はほかの国で起こったものをニュースで観たことはあってもこの国で起こったことはなかった。想像を絶することがすぐ目の前で起こったのだから、自分だけでなく人々にマインドセットの変化をもたらし、生き方や考え方を変えた。生き残った人だって自分や家族が犠牲になっていたかもしれない。それで人々が気づいたわけ。人生とはかけがえのないものだ。なぜこんな小さなことで自分は怒っているのか、と。人は他人に優しくなり協力し合った。そのような変化は地下鉄に乗っていると伝わってきた。なのに、しばらくすると記憶が薄らぎ、人は傲慢で無礼でせっかちでわがままに逆戻りし、我先にと人を急かして押し退けて「Me Me Me」の世の中に戻った。 この街は2020年に新型コロナのパンデミックでも大打撃を受け、多くの方が亡くなったけれど、9/11の経験とはまったく別物だった。9/11の時は共に力を合わせたのに、パンデミックで人々が言ったのは「近寄るな」「離れろ」だった。マスクを着ける着けないで争いごとが増えた。地下鉄では知らない人同士の諍いが絶えず、家族間の殺人にまで発展した事件もあった。 9/11を知らない若い世代が増え、彼らにとっては、体験したことではなく教科書で学ぶ「歴史の一部」になっている。そんなあの日を知らない世代にも伝えたいのは、私たちを救ってくれた人たちのこと。ビルで働いていた人が非常階段を降りて避難する中、その波に逆行するように多くの消防士が決死の覚悟で救助に向かい、倒壊に巻き込まれた。彼らには本当に頭が上がらない。真のヒーローがいたことを、私たちはいつまでも忘れてはいけない。 (世界貿易センター近くの高校の校長の証言につづく) ### 関連記事(過去記事の一部) テロ発生後、現場に向かったヒーローたちの9.11 米同時多発テロから21年。ニューヨークに住む人々にとって9.11はどんな日だったのか(人生最悪の日を救ったヒーローたちと希望のトラック) 米同時多発テロから20年。ニューヨークに住む人々にとって911はどんな日だったのか 前編:日本人建築家の「あの日」、後編:近所に住んでいた俳優の「あの日」 20年の節目に、現地取材で感じたこと【NY 追悼式典】 グラウンドゼロだけではないNY911慰霊碑 日本人建築家が込めた思い…
映画『ワース 命の値段』2/23日本全国公開(試写会でトークしました)
2001年9月11日、アメリカ各地で発生した同時多発テロ。 被害者遺族7000人を救うため、命に値段をつけるという難題と闘った弁護士の実話『ワース命の値段』。2月23日(木)、いよいよ日本全国で公開される。 筆者はオンライン試写で一足先に観せてもらい、またニューヨークの世界貿易センター跡地(グラウンドゼロ)で毎年遺族に取材をしていることで、今月15日東京・神楽座で行われた試写会でトークイベントにオンラインで登壇させてもらった。 トーク内容を考えている時、これまでお会いした遺族や、あの日をニューヨークで生き延びたニューヨーカーにお聞きした話や記憶を紐解いていった。 改めてこの同時多発テロの犠牲者2977人(日本人24人)について考えてみた。私たちは犠牲者を普段「数字の塊」で考えがちだが、この一人一人は一つ一つの命があり、あの日までそれぞれの人生を歩んでいた。 「一人一人の命に値段がつけられるのか?」 テーマがテーマだけに重く感じる部分もあったが、「人の命の値段」という考えもしなかったことを突きつけられた映画だった。この映画を観て改めて思ったのは、誠意の大切さだ。最後に人を動かすのは誠意なのだということ。 さらに私は、遺族との取材を通して決めたことがある。彼らは「また後でね」で大切な人と別れている。その話を聞いて、私は「自分の人生で大切な人とは喧嘩をしたまま別れない」ということを決めたのだった。そんなことを思い出しながら、犠牲者の命に値段を付けるというのはなかなかの難題だったなぁとも改めて思った。値段をつけられる側の心情も複雑だ。 ただ、セリフでもあったように「前に進むために」そうしなければならないことが世の中にはたくさんある。 9.11というと、遠い世界での出来事のように感じるかもしれないが、日本でも人それぞれのケースや事情で意見が分かれることがある。最近では国葬の是非やマスクをするかしないかなどだ。そして前に進むためには誰かがリードしていかないといけない。日本人もさまざまなシーンで「自分なら?」と問い「自分ごと」として考えることができる映画だ。 『ワース命の値段』が2月23日(木・祝) TOHOシネマズシャンテほか全国公開 監督:サラ・コランジェロ、脚本:マックス・ボレンスタイン、出演:マイケル・キートン、スタンリー・トゥッチ、エイミー・ライアン 2019年/アメリカ/英語/118分/シネスコ/カラー/5.1ch/原題:WORTH/日本語字幕:髙内朝子提供:ギャガ、ロングライド 配給:ロングライド Text by Kasumi Abe (ノアドット「ニューヨーク直行便」(c) 安部かすみより一部転載)無断転載禁止
米同時多発テロから21年。ニューヨークに住む人々にとって9.11はどんな日だったのか
アメリカで同時多発テロ(9/11)が発生し、今年で21年目となる。2001年に生まれた人は21歳となり、テロ発生後生まれの人口も増えている。 年数が経過しても、今だこのテロ事件は尾を引いている。 21年目の主な動き: 9.11それぞれの記憶 ニューヨークに暮らす人々は、あの日どんな体験をし、何を感じたのか?21年目の9月11日に寄せて、今年もあの日を振り返ってもらった。 人生最悪の日を救ったヒーローたちと希望のトラック モニカ・グリックさん(61歳、カトリック教布教組織 勤務 3歳だった末娘は今年24歳。あれから21年も経ったけど、あの日のことは今でもはっきり覚えています。 目を閉じると、すべての出来事がまるで昨日のことのように脳裏に浮かびます。助けに来てくれた息子の表情や髪型、ラップトップを抱えた煤(すす)のついた男性、南部訛りの警官……。 2001年9月11日、あれは火曜日の朝でした。 8時55分ごろ、いつものように最寄りの駅に到着し、勤務先に向かっていました。 まず思い出すのは、駅に着いて見上げた空です。「わ〜、今朝の空はなんて青いの」と思いました。それほどあの日は雲一つない素晴らしい晴天でした。 当時、オフィスはマンハッタン区35丁目と五番街、ちょうどエンパイアステートビルから1ブロック北にありました。ブロンクス区の自宅からバスと地下鉄を乗り継ぎ1時間半ほどの場所です。 オフィスに近づくと、消防車のサイレンがけたたましく鳴っているのに気づきました。あちこちでサイレンが鳴り響くなんてニューヨークでは至って日常風景だけど、この日のサイレンはなんだかいつもより賑やかでした。後から考えると、ちょうど1機目が北棟に突入した直後だったのでしょう。人々は立ち尽くしたまま、一様にダウンタウンの方角を見つめていました。そこには、晴天に黒く巨大な煙の柱が立ち込めていました。 私は今でもこう思ったのを覚えています。「仕事に向かう時間よ。皆、なんで同じ方向を見ているのよ?」と。私はこの地で生まれ育ち、今の今までここで生きてきた生粋のニューヨーカーです。21年前だからあの時は40歳。この街で事故は日常茶飯事だから、またどこかで火災でも起きたのでは、くらいの受け止めでした。 私が働くカトリック教布教組織のオフィスではその日、大規模な理事会の会合が予定され、他州から多くの来客を迎える予定でした。ロビーに着くと係員が先ほどの騒動について「心臓発作か何かによる事故でしょうね」と言っていました。 飛行機のビル衝突事故と言えば、その昔、小型機がエンパイアステートビルに突っ込んだ事故*があまりにも有名です。この事故も、操縦士が発作か何かで操縦できなくなったんだろうと、当時誰もが思っていました。 補足 会合前にミサが予定されていて、事故に遭った被害者のためにお祈りを捧げようということになりました。しかしその後、取締役の秘書がやって来て「今度は別の飛行機がほかの建物に衝突しました。これはただの事故ではありません」と言いました。1、2時間すると警察がやって来て「今すぐ避難せよ」と避難勧告が出たため、私たちはビルの外に避難しました。 予想だにしないことが次々に起こり、一体全体何が起こっているのか誰も理解が追いついていませんでした。当時、通話用の携帯電話は持っていましたが、スマホなんてない時代*です。 補足 結局、全航空機に着陸命令があり空路は閉鎖されたのですが、事故直後はまだ無数の航空機が上空を飛んでいる状態だったので、「また別の飛行機が別のビルに追突するのでは?」「次に狙われるのはすぐ近くの(アイコン的な)エンパイアステートビルかもしれない」と恐怖で一杯でした。「とにかくこの場から避難しなければ!」と焦りました。 家族のことも気になりましたが、電話の通信障害*で夫とは電話がまったく繋がりませんでした。 補足 3歳だった末娘ハンナは夫と自宅にいて、テレビでアニメを観ている時間でしたが、何より夫の子、長男ジョシュが気がかりでした。当時24歳だった彼は(レストランや施設のインテリアに植物を取り入れ景観をデザインする)ランドスケーピング会社で働いていました。この日、ジョシュは同僚と軽トラックで、世界貿易センター(以下WTC)に向かっていたのです。でも彼はいつものように遅刻気味で事故直後に到着し、テロ事件に巻き込まれずに済んだのでした。 WTC周囲が閉鎖されたためジョシュは引き返し、途中で私のビルに寄ってくれ、同僚と一緒にここから救い出してくれたのです。公共交通機関はカオスで道路は人でごった返し、どうやって帰宅しようか途方に暮れていた中、目の前に突然現れた息子はまるで『ランボー』(アクション映画の主人公、ジョン・ランボー)のようでした! 軽トラの荷台は13、14人が立った状態で乗れるスペースがありました。造園道具や土やらで散らかっていましたが、そんなことは誰も気にしていられません。 息子が救いに来てくれた。しかしそれでも恐かったです。想像してみてください。あなたの近くで今、予想だにしない事件が連続で起こったとします。一体誰の仕業か、何のためか、単独犯によるものか共犯者がいるのか、次に何が起ころうとしているのか……電話も繋がらない(もちろんスマホもない)。そんな状況では、恐怖と不安しかありません。 大混乱の中、軽トラは北へ北へと進みます。交通渋滞でゆっくりとしか進みません。長く続く道中、私たちは軽トラから叫び続けました。 「誰か乗りたい人いませんか?」 「降りる人はいますか?」 ごった返す道の脇から見知らぬ人々が、次々に荷台へ飛び乗ります。これはエクアドルや中米で見た光景でした。 過酷な状況ですが人々は互いに笑顔を忘れません。全部で40人くらいが乗り降りしたかもしれません。トラックの中では国籍、人種、年齢、職業……あらゆる垣根を超え、人は皆平等でした。 このトラックにはさまざまなドラマがありました。ラップトップを抱え煤で汚れた男性は、コンピュータコンサルタントをしていて、最初に衝突があったビルから避難して来たと言っていました。アフリカ系の男性、確かナイジェリア出身だったと記憶していますが、彼は荷台に乗っても無言のままでした。ある地点に差し掛かったところで涙をボロボロ流し始め、こう言いました。「人々が次々にビルから飛び降りる姿を見てしまった」と……。 ある女性はトラックを降りるとき神に祈りながら私たちをハグし、ジョシュの軽トラを「Hope Truck(希望のトラック)」と名付けて去って行きました。 確かに息子らは我々のヒーローでした。息子だけではなく、あの日はたくさんの人がヒーローとして身を捧げました。 「希望」は続きます。 トラックがブロンクス区に差し掛かると、そこには小さな食料品店があり、避難する人々にミネラルウォーターやクッキーを配布していました。私はこの光景を目にした瞬間、途轍もないほど強いソリダリティ(連帯感)を感じ、胸がいっぱいになりました。誰もがこの困難に直面しながら、見知らぬ人同士が互いに助け合い、繋がっていました。 2年後に起こった大停電*、そして2020年の新型コロナ感染拡大とロックダウン……。この街は幾度もサバイブしてきたけれど、9.11同様に街が大混乱に陥った大停電の時でさえ、水や(歩きやすい)サンダルは有料で売られていたし、パンデミック中は人に寄り添うどころか一定の距離を保たなければなりませんでした。9.11ほどの助け合いや連帯感はありませんでした。 補足 9.11の日は、自宅に到着するまでいつもの2倍の時間、3時間半ほどかかりましたが、実感としてはそれ以上でした。自宅の椅子にへたり込むと、夫がグラスワインをそっと手渡してくれました。 自宅近辺から遥か遠くにローワーマンハッタン(テロ現場)が見えます。雲一つなかった真っ青な空は真っ黒になっていました。 テロから時間が経過するにつれ事件の真相が明らかになり、少し冷静になると今度は不安な気持ちが襲ってきました。親として子の未来について、成長していく彼らにとってどんな世の中になっていくのかとか、そういった危惧です。また、毎朝家族に挨拶して別れ、その後何が起こるかなんてわからない。それを教えてくれたのもこのテロでした。 私がオフィスに戻ったのは数日後です。私は自宅で仕事ができない性分で、コロナ禍でもオフィス勤務は欠かせません。この時も木曜日には職場に戻ったと思います。地下鉄は運行しておらず、シャトルバスで行ったでしょうか。とにかく「私の街だもの。負けるもんか!」という思いで向かいました。 街中が通常運転に戻るのにはしばらく時間がかかりました。テロ再発の恐れもありマンハッタンはゴーストタウンのようでしたが、エンパイアステートビルには巨大な星条旗が掲げられ、通りからは方言が聞こえてきました。若い警官が南部アクセントで「大丈夫でしたか?」と私に気遣ってくれたとき、緊張の糸が切れたのか、歩道に突っ立ったまま涙がポロポロ溢れ出し、止まらなくなりました。 テロで多くのファーストレスポンダー(消防隊員、救急隊員、警察官)を失ったニューヨークに、他州の人々が心を寄せ、我々と共に立ち上がり、救助や援助に駆けつけてくれたのです。瓦礫や粉塵まみれの中、現場周辺の教会だけはオープンし、救助隊に水や酸素吸入器を配布していました。世界中からも心配の声が届けられました。支援のエネルギーがひしひしと感じられ、本当に心強かったです。 テロ後、今とは違う「ニューノーマル」が生まれました。バスに乗ったら周りの人々の顔を互いに見て確かめ合うようになりました。セキュリティは強化され、ビルの入り口でIDを求められるようになり、空港では「このバッグは他人から手渡されたものですか?」などと質問されるようになりましたよね。 幸い、友人や家族で亡くなった人はいませんが、子どもから命を救われた近所の男性を知っています。あの日の朝、バスに乗ろうとした時その男性に会いました。彼はWTCで会議があるのに、直前に息子と言い争いになって出発が遅れたと非常に焦っていました。でもそれでテロに巻き込まれずに済んだのです。後日偶然再会し、この日の朝を思い出して、互いの無事を喜び合ったのでした。 犠牲者の中で、マイケル・ジャッジ神父*が倒壊現場から救助隊に運び出されるシーンはあまりにも有名です。彼は市消防局のチャプレン(神父)を務めており、犠牲者のために祈りを捧げるために現場に向かい、倒壊に巻き込まれて命を失いました。 補足 犠牲者は現場で亡くなった人だけではありません。化学物質で事件後に救出活動をした人や周辺の住民の多くもその後、呼吸器系や癌などの病気になり亡くなっています。 テロの翌年に生まれた私の孫は今年ハタチで、9.11を直接知りません。3歳だった末娘も記憶にありません。そんな若い世代に伝えたいこと。そうですね、あの日は最悪な1日だったけれど、私たちがベストピープル(最高、最強などの意)になった日でもあったということです。 それを成し遂げたのは「助け合い」です。名前も知らない人同士の間で、援助の輪がありました。それらが心の癒しに繋がったのは言うまでもありません。そして心に突き刺さったのは「希望」でした。…
テロ発生後、現場に向かったヒーローたちの9.11【米同時多発テロから21年】
9月11日。誰もが21年前の「あの日」を思い出す。 今年は朝から空が厚い雲に覆われ、時折小雨がぱらつく天気だった。そんな中、ニューヨークの世界貿易センタービル跡地「グラウンドゼロ」での追悼式典には、多くの人が集まった。 遺族代表が壇上で犠牲者一人一人の名を読み上げ、旅客機が墜落しビルが倒壊した同時刻に、鐘を鳴らし黙祷を捧げた。 21年の年月の経過と共に、杖をついて参加している人や、1人で参加していると思われる人など、遺族の高齢化が印象的だった。また、同時多発テロを知らない若い世代の参加も見られた。 一方でグラウンドゼロ周辺はというと、昨年は20年という節目の年で式典会場に入ることができない人で溢れていたが、今年は天気も影響してか、昨年ほどの人出は見られなかった。 テロ発生後、現場に向かった勇敢なヒーローたちの9.11 今年も、式典に集まった遺族や救助活動をしたファーストレスポンダーたちに話を聞いた。 「救急隊員」「消防士」「警察官」、それぞれのあの日・・・。 救出活動で倒壊に巻き込まれた救急隊員 イリアナ・フローレスさんは、市消防局の救急隊員(EMT)だった弟、カルロス・リロ(Carlos R. Lillo)さんを9.11で亡くした。 リロさんは当時37歳で働き盛りだった。あの朝、飛行機が墜落したツインタワーの人々の人命救助のため、クイーンズの管轄病院から現場に出動し、倒壊に巻き込まれた。最初に倒壊した南棟の中で救命措置をしていたという。 2人は姉弟仲が良く、職場も同じだった。フローレスさんはあの朝、職場の病院で流れたテレビニュースで、テロ事件を知った。 「私たちはまさか弟がツインタワーに救助に行っているとは思いもしませんでした。彼はきっとどこかの病院に出動していると思っていたから、いろいろな病院に連絡し、行方を探したのです。WTCの現場で救出活動をしている時にビルの倒壊に巻き込まれたと知ったのは、事件から1、2週間後のことでした」 「彼(の亡骸)は一部しか見つかっていない……」 今でこそ冷静に話せるようになったが、そのような突然の死は、家族にとって非常に辛い出来事だった。 2年前に結婚したばかりで子どもがいなかったリロさん。甥っ子にあたるフローレスさんの息子を自分の子のように可愛がったという。(写真後ろの男性を指差しながら)「その息子もこんなに大きくなりました」。 「私たちは毎年家族でここに来ます。ここは彼の最期の場所ですから。彼は優しく素晴らしい人格の持ち主で、友人も多かったです。ここに来るといつも彼の友人(同僚)がたくさんいるので、彼らとの再会が毎年楽しみなんです。ここは私たちにとって、弟のことを知るたくさんの人に会うことができる場所でもあるのです」 消防隊員の息子を失った母 ローズマリー・ケインさんの息子ジョージ・ケイン(George Cain)さんも、勇敢なヒーローの1人だ。 ジョージさんは当時35歳で市消防局(FDNY)の消防隊員として働いていた。21年前のこの日、事故が起こったツインタワーに出動し、消火活動を行っていたところ、テロの犠牲となった。 「はじめは小さい飛行機が衝突したと思っていたのですが、テロリストによる攻撃と知りました。それがこの21年間の始まりでした」 倒壊跡地で行方不明になったままの犠牲者はいまだに多く、跡地から発見された2万2000もの遺体の一部が採集されDNA鑑定されているが、DNA鑑定は難しいため、倒壊跡地の死者の多くとまだ照合されていない。21年経った今でもDNA鑑定作業は地道に続けられている。過去記事 以前ニューヨークタイムズで、息子のそのような状況に触れ、自分が死ぬときはジョージさんの遺体の一部を自分と一緒に埋葬することを望む意思を示していたローズマリーさん。追悼式典のこの日は、あまり多くを語ることはなかった。 救助活動をした警官、5年後に健康被害 テロの犠牲者一人一人の名前、そして「名誉の旗」と書かれた大きな星条旗を抱えてこの日参列した、イーロイ・スアレス(Eloy Suarez)さん。 彼は当時、ダウンタウン管区の警察署で、公園の治安を守るパークポリスとして勤務していた。ツインタワーが2棟とも倒壊した後、ファーストレスポンダーとして召集され、倒壊現場に駆けつけた。警備の管轄となるまでの半年間、スアレスさんは倒壊跡地で救助活動に従事した。 現場で何を見たかと質問すると、スアレスさんは「それは見るに耐えない、目を覆うような光景でした」と言い、一呼吸置いた。 「大量の血と多数の負傷者。手足が切断された人もいました。大量のダストと煙、鎮火させるための消火活動。どんな制服を着ていようと(どこの所属だろうと)、救出活動にあたっていた者全員が、ニューヨーカーとして一致団結し、(倒壊現場で目にしたものによって)パニックになることなく心を落ち着かせることに集中し、どこかで誰かを1人でも多く救出できるよう努めていました」 健康状態は決して良くないと言う。症状はテロから5年後に出始めた。 「いくつか健康上の問題があります。鼻が詰まり、呼吸器疾患、睡眠時無呼吸症候群の症状があるため、年に2度マウントサイナイ(大病院)に通って健康チェックをしています。また皮膚癌の可能性も指摘され、良性か悪性かの確認も毎年しています」と言いながら、腕にある傷のようなものを指差した。 2001年9月11日。多くのヒーローがこの地で命を落とした。また生き残ったとしても、その後何らかの苦しみを抱えている。 スアレスさんのケースは特別ではなく、多くのファーストレスポンダーや周辺住民がその後、さまざまな疾患やPTSDを発症している。 合衆国消防局によると、市消防局に所属する99%のアクティブメンバーが9.11の救出、救助、復興のため現場に駆けつけた。その結果、343人の消防隊員がテロ現場で亡くなり、その後10ヵ月間にわたって1万6000人の消防隊員が倒壊跡地での救助、復興活動に従事し、作業員は粉塵、有毒ガス、化学物質などに晒された。20年後の昨年の時点で、このうち1万1300人に健康被害が確認され、胃食道逆流症、癌、鬱やPTSDといった精神疾患などの症状が見られるという。 今も続くDNA鑑定や健康被害。21年経った今でも、9.11は終わっていないのだ。 関連記事 Interview, text and photos by Kasumi Abe (Yahoo!ニュース 個人より一部転載)無断転載禁止
