「父に教わった“我慢”という言葉」ある日系米国人の証言 ─ 強制収容の記憶 あれから82年
米「マンザナー強制収容所」で育った3人の少年 ─ その後 日本は今年、終戦79年を迎える。 太平洋戦争は83年前の1941年12月7日(日本時間の8日)、旧日本陸軍によるマレー半島奇襲上陸、および旧日本海軍による真珠湾攻撃により開戦した。アメリカでは西海岸を中心に国家安全保障に対する不安が高まり、2ヵ月半後の42年2月19日、当時のルーズベルト大統領によって「大統領令9066号(Executive Order 9066)」が発令された。 これはつまり日系人の強制収容を意味した。 同大統領令の権限に基づき同年3月29日、主に西海岸の日系人(日本生まれの一世ほか、アメリカ生まれの二世以降含む)を対象にした強制隔離措置が開始された。米独立系政府組織ナショナルアーカイブの情報によれば、それはたったの48時間前通告で行われ、命令に従わなければ軽犯罪者として逮捕、拘留するというものだった。 詳細強制収容に反発し、不当に逮捕、投獄された日系2世フレッド・コレマツ氏。日系人の正義のため、そしてあらゆる差別と闘うために生涯を捧げた公民権活動家の生涯とは? 「間違いは間違い」と生涯言い続けた日系人の人権活動家「フレッド・コレマツの日」 ─ 全米各地で 正義訴え不法投獄、人権活動家フレッド・コレマツの人生を辿る ── 日系人強制収容から81年 強制収容所の建設は急ピッチで進められ、西海岸を中心に全10箇所作られた。 コレマツ氏のように強制収容を最後まで拒んだ日系人は少数派で、多くの日系人は国の命令に余儀なく従った。彼らは自宅、農場、会社など私的財産を没収され、Relocation Centers(移転センター)やAssembly Centers(集会所)などという名の収容施設に、同年3月末から8月にかけて移送、隔離された。 同年8月までに各収容所に送られたのは約11万2000人、最終的には12万人以上の日系人が対象となった。うち3分の2に当たる約7万人はアメリカ生まれの市民だった。 Images of Internment: Dorothea Lange’s World War II photos ある日系人の証言 日系アメリカ人、大岡正明(Masaaki Ooka、通称Mas)さんも強制収容の対象となった一人だ。 彼は1946年に収容所から解放された後、冶金エンジニア職に就き、32歳の時に日系三世のダイアン・タケウチ(Dianne Takeuchi)さんと結婚。2男2女をもうけ孫が8人。90歳になる今、夫婦でハワイ島に住んでいる。 正明(Mas)さんは1934年、大岡家の長男としてカリフォルニア州ロサンゼルスで誕生した。彼の父親、菊夫さんは出稼ぎでアメリカに移住後、ロサンゼルスで農産物の卸売会社を営むまでに成功していた。30人弱の従業員を雇うほど軌道に乗った事業だったが、創業から4年後に会社を没収され一家で収容施設に入れられた。 正明(Mas)さんは当時、8歳だった。 「母親が前年に亡くなったので父と妹の3人でバスに乗せられ、到着したのは競馬場(カリフォルニア州サンタアニタパーク競馬場)でした。収容所の準備が整うまでの仮の収容施設として、そのような急場凌ぎの厩舎の馬房に入れられたのです。そこは馬の糞尿の匂いが充満して汚く、ベッドや寝袋が支給されたかは覚えていませんが、地面に寝かされたことだけは覚えています」 想像してみてほしい。あなたは善良な市民で、何も犯罪など犯していない。なのに「日本にルーツがある」というただそれだけの理由でほかの日本人と一緒に拘束され今晩から不潔極まりない馬小屋で寝るようになったら…? 大岡家がその後しばらくして移されたのが、マンザナー強制収容所だった。政府が収容所を作るにあたっては、もともと人が住まないような地理的に過酷な土地が選ばれた。 「夏は暑く強風が吹き荒れる。冬は非常に寒い。たまに積雪や竜巻もあった。サソリやヘビなど野生動物も出没するような環境だった」 「父は大工として毎日働いていたので家のことは全部自分でやらなければならなかった。食事は食堂で出されたが、そのほか洗濯や掃除など家事全般は私がやった。日系二世の亡き母と違い、日本語がメイン言語の一世の父親とのコミュニケーションは難しかったけど、その父からある日本的美学を教えてもらった。それが『我慢』という言葉です」 バラックと呼ばれる家族ごとに割り当てられた小屋はマッチ箱のごとく狭かった。建て付けが悪く、風が吹けば砂埃が隙間風と共に室内に吹き込んだ。共同の風呂やトイレは別の長屋にあった。トイレは男女別だが中に入ると個々の仕切りがない、いわばプライバシーがまったくない状態。 彼は11歳までの3年間をそのような環境で過ごした。普段は英語の授業のほか、家事が終わると友人とバスケットボールやビー玉、ドッジボールをして過ごした。 「一度塀の近くにいた時に監視をしていた軍の兵士から銃を発砲されたことがありました。警告として」 弾は外れ、大事には至らなかった。 日系人の強制収容に関しては、幼かった正明(Mas)さんにとって一体何が起こっているのか飲み込めず、「とりあえず置かれた環境を受け入れるしかなかった」。片や、せっかく築いた事業と財産をすべて奪われ、妻に先立たれ2人の子を男手一つで育て上げた父・菊夫さんの苦労たるやいかばかりか ─ 。 戦後、70年代になると日系人によるリドレス(戦後の救済補償)運動が起こり、アメリカ政府は日系人強制収容の過ちを認めた。88年のレーガン政権下で人権擁護法(Civil Liberties Act of 1988)に署名。日系人の全生存者と遺族に大統領からの謝罪文が送られ、一人当たり補償金2万ドルが支払われた。 「父の物語をドキュメンタリー映像に」 … Continue reading 「父に教わった“我慢”という言葉」ある日系米国人の証言 ─ 強制収容の記憶 あれから82年
Copy and paste this URL into your WordPress site to embed
Copy and paste this code into your site to embed